2・佐幕派大名として 青年大名林忠崇 |
血気盛んな青年大名 |
忠崇は、前述の文書(こちら)を回想録に全文を引き写している。この点から見ても、忠崇が菊の間詰めの他の大名たちと同様の行動をしていたことが十分に察しが付く。しかも、忠崇はただの佐幕派ではなかった。他の大名たち以上に急進的な佐幕派だったようだ。 朝廷が王政復古の大号令を発したのが慶応3年12月9日。つまり、大名たちの上京期限が過ぎてから9日目であった。その大変革の内容が江戸城留守居の老中たちから江戸残留の忠崇らに伝えられたのは、12月18日であった。 すると忠崇は翌19日、老中たちに対して一通の書状を差し出した。これも忠崇の回想録に記載されている。 昨日お達し御座候お書きつけの趣、とくと拝見つかまつり候ところ、実に恐れ入りたてまつり候御次第、感泣に堪えず。ついては従来の御恩沢に報いてたてまつり候も今日の儀と存じたてまつり候。これにより、及ばずながら一命をなげうち、粉骨砕身つかまつり候ほか御座なく候。この段、心体(本心)につき申し上げたてまつり候、以上。 戊辰戦争勃発前夜、佐幕派諸藩の士、あるいは旗本御家人たちが合言葉のように口にしたのは、「忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらん」という言葉であった。 召命に応じて状況に応じた大名たちは忘恩の徒、それを拒否して江戸に残留する者たちこそ義を重んじる徳川家臣(朝廷から見れば陪臣)という感覚である。 忠崇はその回想録「一夢林翁戊辰出陣記」に、「忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらん」という言葉を一歩進め、「一命をなげうち、粉骨砕身つかまつり候」と、新政府ないし兵力の基盤をなす薩長勢との武力対決を一早く決意したのである。 |
忠崇、上阪へ |
さらに12月9日夜、御所内で開かれた小御所会議の結果、新政府が慶喜に辞官納地(官位辞退と土地人民の還納)を命じたこと。同じく13日、慶喜が二条城から大坂城へ兵を引いたことなども、老中稲葉正邦は23日のうちに江戸残留の大名たちに伝えた。そして、諸藩それぞれの都合はあろうが、とりあえず大坂に出張せよ、と火に油を注ぐようなことを命じたから、忠崇はもう止まらない。 27日、忠崇が稲葉正邦に差し出した願書に言う。 少人数には御座候えども、私召しつれ、速やかに上阪、及ばずながら微忠を尽くしたく存じたてまつり候。この段、願いたてまつり候、以上。 周知のように、大坂城を本拠とした旧幕府勢と京都に入った新政府軍との間に鳥羽伏見戦争が勃発するのは、開けて慶応4年1月3日の事。その開戦前夜、忠崇は請西藩士隊を率いて旧幕府軍のいる大坂へ加勢に走ろうとしたのである。 この願書に稲葉正邦がどう答えたかは不明である。しかし、藩主松平容保が慶喜とともに大坂城へ引いたと知らされた会津藩江戸詰めの者たちその他には、激昂して上坂した者も少なくなかった。このような動きはもはや江戸城留守居の老中たちにも止められないものになっていたとみるべきだから、この時点で忠崇は、野に放たれた一頭のサラブレッドに似た存在と化した。 |
大坂に合流できず |
しかし、忠崇は残念ながら大坂城の旧幕府軍に合流できなかった。その原因はいくさの準備と、品川沖から大坂湾へ請西藩士を運ぶべき渡海船の調達にあまりに手間取ったことにあったらしい。 大名家の江戸屋敷は、政庁でもある上屋敷の他に中屋敷、下屋敷などの別がある。請西藩は日本橋蠣殻町に江戸上屋敷を、本所菊川町に下屋敷を持っていたが、上屋敷は慶応元年頃九段坂に移されていた。そして忠崇は、慶応4年1月6日夜、慶喜が大坂城を脱出したために鳥羽伏見戦争が旧幕府勢の一方的な敗北と決まった後も、そうとは夢にも知らずまだ九段坂の上屋敷でいくさ準備を続けていたのだ。 忠崇は慶応4年1月9日の朝9時ころ、ようやく隊士を引き連れ九段坂の邸を出発、日本橋から小舟に乗りこみ、品川沖の神妙丸という大船に乗ろうとしていたが、この時すでに慶喜は旧幕府海軍旗艦開陽丸に乗って江戸へ渡海中であった。大坂城中に残された旧幕府兵、会津・桑名の両藩を主力とする佐幕派兵力も四方に離散していたのである。 忠崇も神妙丸に乗り移ってからも烈風がおさまらず、出航できなかった。ようやく風が静まって錨を挙げることができたのは、12日の午後2時過ぎころのこと、浦賀へ入ったのは13日の暁であったが、神妙丸はそれまでに「蒸気軍艦5,6艘」とすれ違っていた。 渋沢栄一「徳川慶喜公伝」によれば、開陽丸は10日夕刻浦賀に寄港。11日品川沖に入り、慶喜は12日未明に徳川家の別邸浜御殿に上陸した。つまり、忠崇は「蒸気軍艦5,6艘」のうちのひとつ開陽丸とすれ違っていたのである。 浦賀へ入港した際、忠崇は慶喜が江戸へ帰ったことを初めて知った。徳川の天下を賭けた大一番に遅れてしまった佐幕派青年大名林忠崇の口惜しさはいかばかりのほどであっただろうか。 |