2・佐幕派大名として 大政奉還 |
将軍慶喜による政権奉還 |
慶応2年(1866)1月21日、尊王攘夷派の急先鋒長州藩とそれまで公武合体派として幕府寄りの立場をとっていた薩摩藩との間に、薩長同盟が成立。西南の雄藩を中心に、討幕の気運が盛り上がってきた。 さらに6月、長州藩を討つべく幕府と公武合体派諸藩とが第二次長州追討戦を開始したが、戦意に欠ける追討軍は各地で長州軍に敗れ去った。 これを見た徳川十四代将軍家茂は、7月20日失意のうちに大坂城中で病死。孝明天皇もすでにこの年の2月に急死していたため、「公(朝廷)」と「武(徳川家)」とが一致団結して国難を乗り切ろうという公武合体論は、急速に時代遅れとなっていった。 家茂の死を受けて十五代将軍となったのが一橋慶喜改め徳川慶喜であったが、慶応3年になると、討幕運動と並行して大政奉還建白書運動も盛んになってくる。これは武力に訴えることなく、徳川家から自発的に朝廷へ政権を返還するよう勧めようという穏健な動きであり、同年10月14日、慶喜がこのような土佐藩の意見を入れ、朝廷に対して大政奉還の上表を提出したのだが、林忠崇は、晴れて請西藩主となってからわずか4か月後に、未曽有の大変革を間近に見る羽目になった。 朝廷が慶喜の政権奉還を認めたのは翌15日のこと。朝廷は同日中に10万石以上の諸大名に上京を促し、10月21日には1万石以上の諸大名も京都へ召集することにしたのである。 二百七十藩すべての藩主に呼び出しをかけるという前代未聞の出来事であったが、これは新体制づくりを急ぐと同時に、幕藩体制になじみ切っていた大名たちが朝廷に対してどの程度忠誠心を示すかを計る手段でもあった。 しかも上京時期は「11月を期して」つまり10月いっぱいというわけである。これによって二百七十の大名家たちは、徳川家と存亡を共にするか、朝廷という名の新たな主家を選ぶのか、という二者択一を締切付きで迫られる形になった。 |
徳川家と存亡を共にする者たち |
結果からすると、朝廷の招集に応じた大名たちは少なくなかった。だが、徳川家を見限ることを潔しとしない者たちも確乎として存在したのである。 徳川家と存亡を共にする、いわゆる佐幕派としての動きをまず見せたのは、江戸城溜の間詰格として、老中かそれに準ずる待遇を受けていた譜代大名たちであった。庄内藩主酒井忠篤、姫路藩主酒井忠惇(老中)、忍藩主松平忠誠、三河吉田藩主大河内信古、浜松藩主井上正直(元老中)、岡崎藩主本多忠民(元老中)の計6名。 彼らは上京期限の迫りつつある11月15日に、「官位を朝廷に還し、以て徳川氏臣属の義を明らかにせん」との連署の書状を江戸城留守居の3人の老中に差し出したのである。 3人の老中とは、淀藩主稲葉正邦、川越藩主松平康英、唐津藩主世子小笠原長行、むろんこの3名も譜代大名という点では先の6名と共通していた。 先の連署の内容を詳しく見ていく。 「御譜代の家筋の儀は、井伊家をはじめ万石以上は大名と唱え来たり候えども、万石以下の御家来に替わりこれなく、御家(徳川家)の御盛衰に従い、その唱えの替わりの候まで候えば、このたび(朝廷の)仰せ出された候趣については、いずれも大名の字を退き(廃し)御家人同様に相心得、官位返上つかまつるべく、万石以下(の旗本御家人たちの)官位も同様にこれある趣、朝廷へ仰せ立てられ候ようつかまつりたく候事」 譜代大名たる者の知行はすべて徳川家から与えられたものであって、朝廷から受けているのは官位だけに過ぎない。だからその官位を返上し、かつ大名という名称自体を廃語にしてしまえば、10万石以上の大名、1万石以上の大名と二度にわたって出された召命のいずれにも従う必要はない、という論理である。 これはまた討幕思想に対する佐幕の主張、すなわち江戸幕府が過去のものとなったとしても自分たちは徳川家の家臣として主家と存亡を共にする、という思考法でもある。 |
小大名たちも同様の思い |
上記のような佐幕の思いは、単に溜の間詰め格の大名たちだけのものではなかった。林忠崇を含む譜代の小大名たちも、同じ11月15日のうちに、より強く佐幕の心情を打ち出した文書を作成していた。 「そもそも(徳川慶喜が)このほど御復政(大政奉還を)仰せ立たせられ候儀は、高明正大の御実情より出せられ候御英断にて、感涙に堪えざる御儀に存じたてまつり候。元来当席(菊の間詰の家格)の儀は御代々様(徳川歴代将軍)より格別の御愛遇をこうむり、祖先より土地人民を数百年子々孫々安穏に相続つかまつり候段、その恩沢の広大実に骨髄に通徹まかりあり、寸刻も忘却つかまつらず。かかる御場合に相成り候上は、なおさらもって報恩尽忠、進退存亡、台命(将軍の命令)に従うのほか念御座なく候。しかるところ、今日に至り禁闕(朝廷)にまかり出候儀は、朝命を奉じざる次第に相聞こえ、不敬の罪逃れたく恐れ入りたてまつり候へども、なにとぞ微々の赤心奮発のほど、お汲み分け成し下され。この段幾重にも伏して願いたてまつり候、以上。」 つまり、われわれが今日あるのはすべて徳川家のおかげであり、政権が朝廷へ返上されたのもひとえに将軍の英断によるものではないか。我々は今後も徳川家を君主と仰ぎ、その家臣として進退を共にするから、朝命を奉じて上京する気はない、ということである。 |