決戦前夜
 ~倒幕派の陰謀~
 


 持久戦に持ち込みたい慶喜
諸侯会議の開催が公式の政治日程に上った。すべては諸侯会議待ちだった。
だが、事態は慶喜と土佐藩の思う通りには運ばない。朝廷が諸国の大名の上京を命じたのは10月21日だったが、出足が思わしくないので、10月25日に重ねて命令を発した。期限は11月30日の定めてある。ところが、11月中に上京してきた諸侯は、全国266藩のうち薩摩・芸州・尾張・越前・彦根・郡山・大聖寺・膳所・竜野・尼ケ崎・福知山・園部・水口・西大路・柏原・狭山の16藩に過ぎなかった。佐幕派の大名の間にはむしろ上京拒否の気運が強く、その他は様子見をしている。会議開催のスケジュールは立たず、形勢は混とんとしてさっぱり先が読めない。慶喜は議院政権構想をじっと胸に秘めて語らず、ゆっくり持久戦に持ち込むつもりであった。
 焦る倒幕派
慶喜の性的である倒幕派も、この形勢を黙視しているはずはない。大政奉還の奇策で慶喜征討に水を差された岩倉具視・大久保一蔵・西郷吉之助らは、戦略を練り直す。
徳川家の内部も大混乱だ。会津・桑名両藩はもとより紀州・津(藤堂)・大垣(戸田)など佐幕派諸藩は、憤激して薩摩藩邸攻撃も辞さずと息巻き、これをなだめるのは一苦労だった。10月17日には江戸城で大評定があり、勘定奉行小栗上野介をはじめ芙蓉間詰の革新派官僚が政権返上に強く反対した。老中格陸軍総裁松平乗謨・老中格海軍総裁稲葉正巳・大目付滝川具孝らが軍艦順動に乗って西上してくる。28日には若年寄兼陸軍奉行石川総菅が歩・騎・砲三兵を引率し、軍艦冨士山に搭乗しておっとり刀でかけ付ける。全員が大政奉還に反対し、口々に「上表を取り消して原状復帰を図れ」と叫びたてる。憤激の余り、徒党を組んで無許可で西上する旗本たちも大勢いた。折から流行していたええじゃないか踊りの輪を縫って巡邏する新選組もやたら殺気立ち、方々で薩長土の藩士と事を構えていた。
倒幕派は最後の仕上げを急いだ。幕府軍がどんどん増強される形成の中で、徳川家に有利と分かっている諸侯会議が開かれるのを待ってはいられない。その機先を制して動いたのである。「勤王藩」と見込んだ長州・土佐・芸州・尾張四藩の重役に働きかけ、言葉巧みに倒幕計画へ誘い込む。成否の鍵は後藤象二郎の抱き込みであった。12月2日、大久保・西郷は後藤をつかまえ、大胆不敵にも「王政復古をクーデター方式で決行する」と告げたうえ、計画の骨子まで打ち明けた。
① 二条摂政・賀陽宮ならびに伝奏・議奏職を廃止する
② 慶喜から出ている征夷大将軍の辞表を勅許する
③ 京都守護職・京都所司代なども退職。蛤御門の警衛を免除(排除)する。
④ 幕府の采地を削減して、議事院の給費に当てる
⑤ 有栖川親王を大政の総裁とする。議定という職を置く
⑥ 土州・薩州・芸州・尾州・越前などの諸藩を諸門御警衛とし、当日異論を起こすものを討つ
 苦肉の策当たる
倒幕派の苦肉の策は功を奏した。後藤は寝耳に水の話に仰天しつつも、結局は意のままに操られた。良心がチクチク傷んだ後藤は極秘計画を越前藩用人の中根雪江にリークする。中根から話を聞いた松平春嶽は散々に思い悩んだ末、この陰謀を慶喜の耳に入れようと決心する。12月6日、中根は慶喜に拝謁して「天下の一大事とばかり秘密の策謀を言上した。慶喜は「珠の外の御驚きにて御顔色変ぜられ、今更致し方もなけれども、なお考え奥べし」と沈痛な表情であったが、何の手も打とうとしなかった。後年、慶喜はこの日を回送して、「予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職をも辞したれば、王政復古の御沙汰あるべきは当然にて、王政復古にこれらの職の廃せられん事もまた当然なればなり」と語っている。(昔夢会筆記第15)
慶喜の反応は不可解だが、春嶽の回想に回答が隠されているようだ。後藤が持ってきた話には、朝政一新後は「関白・幕府・議奏・伝奏その他一切廃され、慶喜公はやはり議定職に置かる」とあったというのである。慶喜は議定職に残すと口約束が与えられている。これも後藤得意の営業トークだったのだろうか。いや、後藤自身もそう信じ込まされていたに違いない。




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