帝国統治の立役者たち
 ~ユスティヌス~
(470~527)
 


 ユスティニアヌスの叔父
ユスティヌスは、ユスティニアヌスの母方の叔父である。ユスティニアヌスが社会的地位の上昇を果たし、帝国の頂点に達し得たのもこの叔父のおかげであった。ユスティヌスはダルダニア地方ペレディアナの出身であり、貧しい農家に生まれた。若くしてコンスタンティノーブルに出て皇帝警護隊に入った。軍隊において職歴を重ね、492年のイサウリア人との戦いではドウークスとして参戦。502年には対ペルシア戦、515年にはヴィタリウスに対する戦いに参加した。このときすでに、彼は聖寝室長官であり、パトリキオス位を帯びていた。アナスタシウス帝の没後、彼は元老院によって皇帝に選出された。この選挙は軍団と民衆から認証された。彼のこの選出時の状況については、なお不明な点が残っている。ユスティヌスの選出は、元老院の投票によって多くの他の候補が出された後での事だった。彼が選出されたことについては、先任皇帝アナスタシウスの宗教政策への対応が有利に働いたようである。アナスタシウスは、次第にカルゲトン公会議に対立する単性論派支持に傾いていた。また、カルゲトン派がラテン世界であるイリュリクム出身のこの候補を支持したことも作用したようである。ユスティヌスは、カルゲトン公会議においてローマ司教座と結んでいた。また、元老院がエクスクビトール(聖寝室侍従官)たちによるクーデターを恐れた可能性もある。あるいはまた、元老院がユスティヌスを、他の者よりも御しやすいと判断したのかもしれない。いずれにせよ、選出された翌日、ユスティヌスはハギア・ソフィア聖堂で戴冠された。そして、かつて奴隷で内縁関係にあった妻ルビキナも、皇后として夫とともに戴冠され、より高貴な名エウフェミアを名乗った。
 ユスティニアヌスの台頭
ユスティヌスは全く教育を受けていなかった。プロコビオスは、ユスティヌスが文盲だったと非難している。しかしそれにもかかわらず、ユスティヌスのキャリアからは、彼が聡明だったことが示される。彼は、周囲の若者たちには厳格な教育を受けさせた。特に、ゲルマヌス、ユスティニアヌスなどの甥たちにはそうだった。若くなく(48歳で)皇帝となったユスティヌスは活発ではなく、また、老衰、無関心によったのか、あるいは無能だったのか、政治的指導力も急速に見られなくなったようである。
ユスティヌス治世の当初から、最重要な役割ではなかったにせよ、諸事の指導にあたってユスティニアヌスが重要な役割を果たしていた。ユスティニアヌスは、新たな宗教政策を実施に移すにあたっては積極的に介入している。また、ユスティニアヌスは、首都及び帝国内の諸都市で建築、再建授業にも着手している。ユスティヌスの治世は、その甥ユスティニアヌスの治世のプレリュードであろう。そこにはユスティニアヌスの最初の統治実績があり、のちにそれは、自らを記憶にとどめさせることとなるのである。




TOPページへ BACKします