揺れ動く幕末史観
 ~西郷もぶれまくる~
 


 幕末・明治維新の従来の定説
かつてより教えられた、教え込まれた幕末から明治維新にかけての、いわゆる「維新史観」的なものは、おおむね次のようなものであろう。

二百数十年にわたる長い泰平の世のもとで、徳川幕府は安住に馴れ、変革を全く求めず、徐々にその政権内部は腐敗し、衰退の兆しを見せ始めていた。
その間、西洋列強は市民革命や産業革命によって国家として自立し、大いに発展を遂げ、その力をアジア・アフリカといった、西洋から見れば後進の地に向け、植民地化し、益々列強たちを肥えさせていった。そしてその矛先は長く太平の世を迎えていた東アジアの清、朝鮮、そして日本へと及んできた。
嘉永6年(1853)突如として黒船が六艘、浦賀沖に現れた。ペリー提督率いるアメリカ海軍が、日本との通商を求めてやってきた。無能な幕府はこれに抗することができず、やがて日米和親条約を締結、さらに数年後には日米修好通商条約を締結し、アメリカだけではなく、他の西洋列強とも条約を結び、長く続いた鎖国状態に終止符を打った。
これに怒った尊王攘夷派は、外国を討ち払い、衰えつつあった幕府に代わり、天皇をあがめ奉ることで世を変えようとした。彼ら幕末の志士たちの多くはその志に燃え、その若い命を散らしていった。吉田松陰などはそのもっとも最たる例で、彼の遺志を受け継ぐべく多くの長州の志士たちが立ち上がり、討幕を目指した。
幕府はこれを抑えようと考えたが、如何せん幕府に属する旗本連中は、泰平の世に馴れて往年の強さを失い、全くあてにならない。そこで多くの浪士たちを募り、彼らをもって京都などの治安維持に備えた。その中の一部が新選組である。
また、衰えつつある幕府に接近する薩摩や肥前、土佐等といったいわゆる外様雄藩が台頭。彼らの主導で幕末の政治は動いていく。
長州はやがて朝敵とされ、一敗地にまみれてしまう。が、高杉晋作らによって再び立ち上がり、これを滅ぼさんとする幕府を長州に向かい入れ、見事討ち果たす。その間、幕府側にいたはずの薩摩は、討幕することを視野に入れ、坂本龍馬らが薩摩と長州を結ばせようと画策し、これに成功。いわゆる薩長同盟の締結により、時代は大きく動き始めた。
絶体絶命に陥った幕府は、時の将軍徳川慶喜が起死回生の手段に打って出る。大政奉還という、政権をいったん朝廷にお返しするという裏技である。朝廷に返還されたところで、彼らは政権運営の何たるかをまるで知らない。結局、泣きついて徳川に政権を戻すであろう、慶喜はそう睨んだ。
しかし、今度は絶体絶命の薩長が「王政復古の大号令」を発し、旧幕府側を追い詰める。その結果鳥羽伏見の戦いが勃発し、旧癖な旧幕府軍は敗れ、新兵器を備え戦いに馴れた薩長が勝利し官軍となり、旧幕府軍は賊軍となる。
やがて徳川慶喜は恭順し、従わぬのは一部の幕閣と、奥羽越列藩同盟の雄藩のみとなる。官軍に従わぬ会津や長岡藩を追討、さらには北海道まで逃げた榎本武揚ら旧幕府首脳らとの激しい戦いを戊辰戦争といい、これに官軍は勝利。これにより明治維新が達成。あとは、版籍奉還や廃藩置県を経て、近代国家へと突き進んでいく。

ざっとこんな感じなのだろう。
 官軍史観に物申す
だが、こんな勝てば官軍史観は、最近諸文献によってかなり否定され始めている。
江戸時代をいわゆる旧癖な時代と全面否定し、西洋化することこそがまっとうな社会にありようだとする明治新政府のやり方は、徳川幕府を全否定することで、薩長ら新政府の正当性を主張しようとするものだという意見である。
旧癖で無能な幕府とされてきたのだが、実際のところ、幕末期における幕閣もかなり有能な人材が多く、彼らによって近代化された日本の礎が築かれた部分も数多い。ペリー来航時に幕府が無能で逃げ腰で、開港を余儀なくされたという見方は、当時の浦賀奉行である中島三郎助が見事な臨機応変な応対で乗り切り、むしろ有能さが際立った。
吉田松陰が純粋に国を思い、それによって激烈な行動に走らせたとする見方も、一部には「単なるテロリストの親玉」とする見方さえもある。以前では考えられなかったことであり、吉田松陰ひいては長州藩士に対する見方が大きく変わるものである。
また、長州も薩摩も日本国を思って立ち上がったなどというよりも、むしろ自らが徳川幕府に代わって政権を取りたかっただけにすぎず、そのために行動したのだと。維新後近代化に突き進んだのも、むしろ徳川幕府の進めていた近代化をそのまま泥棒しただけに過ぎないと。
鳥羽伏見における薩長と旧幕府の戦いでも、旧幕府側が旧癖な武装だというのは誤りで、むしろ兵力も武装も、旧幕府側のほうが遥かに有利であり、薩長が勝ったのは別の要因であろう。そして、その後の戊辰戦争もそのまま突き進んだわけではなく、奥羽越列藩との複雑な軋轢により戦争に突入せざるを得なくなった。勝ち進んでいた新政府軍がうまくやれば、この戦争は避けられたかもしれない。
そして、戊辰戦争後スムーズに近代化が進んだかに思えるが、実際にはしばらくは江戸期と統治状態はさして変わらず、版籍奉還、廃藩置県も強引に行ったことにより、多くの士族たちが路頭に迷い、反乱を各地で起こしてもいる。
また、無能だとされていた旧幕府軍の人材が、実は数多く新政府の要人として取り立てられていることも忘れてはならない。もっともこれは、新政府に人材が足りないことと、政権運営をノウハウが分からず、結果として旧幕府の要人に求めざるを得なかったということなのだろうが。
いずれにしても、薩長新政府、明治維新マンセー的な見方は覆りつつある。
 私自身ぶれまくる
最近私も、確かに薩長側よりも、徐々に旧幕府側に思い入れが強くなっている。河合継之助、小栗上野介、中島三郎助、土方歳三などといった面々は、最後の最後まで幕府に忠義を尽くし、そして果てた。いずれの面々も盲目的な忠義ではなく、時代の趨勢は見誤っていなかったであろう。それでも筋を尽くして消える。これぞ本当の武士道ではないか。
それに比べると、卑劣な人斬りを「天誅!」の名のもとで繰り返した長州藩士を中心とする志士たちや、幕府に巧みに接近しつつも、最後は裏切って討幕の主導権を握った薩摩藩、日和見に徹して勝ち馬に乗った肥前藩などは、いわゆる武士道的な見地からすると非道に見えてしまう。
しかし、そういった見方だけで見てしまうと、歴史認識がおかしくなってしまうのも事実だ。薩長日斬る新政府軍が勝った理由、勝ち残って新政府を樹立し、曲がりなりにも日本が近代化に突き進んだ理由。こうなった理由にはきっと歴史的な裏付けがあるはずだと。
残虐非道を繰り返した長州や薩摩も、多くの血を流している。その犠牲もまた考慮すべきである。もちろん、薩長が討ち果たした会津や長岡、二本松らの悲劇によって散らした命も考慮すべきであるが。
ああ、こうなってくると、薩長討幕派も、佐幕派も、私にとってどちらが正しいのかまるで分らない。いや、どっちが正しいなんてありえないのだろう。
一人一人への思い入れを大切にしながらも、冷徹に事実認識を行い、徹底的に調べていき、自らの意見を構築するしかない。一番思い入れが強い時代でもある幕末をもう一度深く再検証したいと思う。




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