信繁から幸村へ
 ~さだめなき浮世~
 


 大坂入城
人知れず、配所に果てる運命にあった信繁のもとに、太閤秀吉の遺児、豊臣秀頼の使者が訪れたのは慶長19年の秋である。この頃、大坂城の秀頼は天下人家康と一触即発の状態にあった。兵力が遥かに劣る上、上級指揮官が不足している大坂方が、関ケ原の折、昌幸とともに家康に痛撃を浴びせた信繁を招いたのは、自然の成り行きであろう。
大坂方は引き出物として黄金200枚、銀30貫を用意し、大名への取り立ても約束したという。人生の岐路に立った信繁は、大坂城に入る道を選んだ。こうして、真田信繁=後世に名高い幸村の戦いが始まる。
大坂入城後、6000人の人数を与えられた幸村は、城の南方、玉造口の外の台地に出丸を築いて立て籠もった。有名な真田丸である。慶長19年11月、大坂冬の陣が始まった。
12月4日、幸村は真田丸に押し寄せた徳川方の前田利常らの軍勢に大損害を与えて撃退した。この冬の陣における唯一の大戦闘の勝利により、幸村の名は一挙に高まった。
一方、大坂城を強攻する事の不利を悟った家康は、12月19日に和議を結ぶと、これに乗じて大坂城の外堀を強引に埋め始めている。
 女性宛に今生の別れ
あくる慶長20年(元和元年)の正月24日、大坂城内の幸村は、不安定な状況の下で、姉の村松に宛てて書状(小山田文書)を送った。
さてもさてもこんどふりょ(不慮)の事にて、御とりあいに成り申し、われあれここもとへまいり申し候。きっかい(奇怪)とも御すいりゃう(推量)候べく候。ただし、まづまづあひすみ、われわれもしに申さず候。御けさん(見参)にて申したく候。あすにかはり候はんはしらず候へども、なに事なく候。
(この度は、思いがけぬことで戦いになり、私もここへ参りました。どうしたことかと思われていますでしょうね。ともかく、戦いが済んで、私も生き残りました。お会いしてお話ししたく思います。明日はどうなるかわかりませんが、今のところは何事もなく過ごしています)
女性宛への書状として仮名書きにした柔らかい文章から、敵方に参加した行為についての謝罪や、姉に心配をかけまいとする配慮がうかがわれる。また、「明日はどうなるかわからない」という一節からは、家康の背信に対して城内に再戦の気運が盛り上がってきたことも感じられる。
次いで2月10日、幸村は娘すえの婿で、信濃長窪宿の郷士、石合十蔵道定に宛てて書状(長井文書)を送った。
我等籠城の上は、必死に相極まり候間、この世にて面談は、これあるまじく候。何事もすへこと、心に叶わぬぎ(儀)候とも、御見捨てこれ無きやうに頼み入り候

(籠城により、運命は決まりました。もはや、この世でお会いすることもありますまい。すえのことだけは、どんなに気に入らぬことがあっても、見捨てたりせぬようお願いいたします)
敵将の子となった娘の将来が案じられたのだろう。子を思う親の心情は、昔も今も変わらない。
死を覚悟して
3月19日、幸村は小山田茂誠・之知父子に宛てて、書状(小山田文書)を送った。
我等身上の儀、殿様(秀頼)御懇比も大かたの事にてはこれ無く候へども、万事遣いのみにて御座候。一日一日とくらし申し候。面上にならでくわしく申し得ず候間、中々書中具せず候。様子御使い申すべく候。当年中も静かに御座候へば、何とぞ仕り、面を以て申し承りたく存じ候。さだめなき浮世にて候へば、一日さきは知らざる事に候。我々事などは浮世にあるのとはおぼしめし候まじく候。
(私に対する殿様の寵愛は大変なものですが、色々と気遣いが多いことです。とにかく、一日一日と暮らしています。詳しいことは、お会いせずには説明しにくく、書状では思い通りになりません。こちらの様子は御使者が申し上げるでしょう。当年中が平穏ならば、何とかお会いしてお話ししたく思います。懐かしいことは山々です。さだめなき浮世ですから、一日先のことはわかりません。私のことなど、この世に居るものと思わないでください)
大名の子として育った毛並みの良さと、冬の陣での活躍とで、幸村は秀頼の絶大な信頼を得たが、新参の身で頭角を現した彼にとって、大坂城内での生活は気苦労の多いものであったのだろう。姉婿の茂誠と甥の之知に対し、彼はそれを正直に打ち明けている。
また、「今年いっぱい平穏ならば、何としてもお会いしたい」という一節に、安定した老後への密かな期待がにじみ出ているが、同時に彼は、それが実現することの難しさと、戦争再開への不安をも隠していない。大坂方は再び戦備を整え始めたが、その劣勢はあまりに明らかだったのである。
「当年中も静かに御座候へば・・・」と書いた幸村。だが、彼には時間はもう残されていない。




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