信繁から幸村へ ~赦免を願う日々~ |
よって内府様(家康)当夏中関東御下向の由、風聞候間、拙子事、本佐州(本多佐渡守正信)定めて披露におよばるるべく候か。下山においては、面拝をもって申し承るべく候。 ~内府様がこの夏のうちに関東に下向されるとのうわさがあります。もしそうなれば、私のことを本多正信がとりなしてくれるかもしれません。下山が叶いましたら、直接お会いしてお話を致したく思います~ だが、昌幸の考えは甘かった。天正13年の上田城攻めと、関ケ原の2度にわたって徳川軍を翻弄した昌幸を、家康が赦すはずはなく、また家康の不興を買ってまで昌幸の赦免に奔走する者など、誰もいなかったのである。 気力も萎え、体力も衰えていく中、高野山禄の九度山で11年間の軟禁生活は結局許されぬまま、慶長16年(1611)6月4日、昌幸は65歳の人生を終えた。
それは、2度にわたって家康に苦汁を舐めさせた責任者は昌幸であり、信繁はその息子に過ぎない。兄の信之は家康の覚えめでたく、確固たる地位を築いている。昌幸の死を機会に待遇は改善されるかもしれない。信之に預けられ上田で隠居生活を送るか、人質として江戸に送られるか、いずれにしても山中の配所生活から抜け出せるのであれば、いかなる境遇も甘受したい、そう考えたと思う。 この頃信繁は、出家して好白斎と称したが、それも父の死への追悼に加え、赦免への布告ともみられる。ところが、信繁の期待に反して、赦免の使者は訪れない。そして配所に留まっていた昌幸の家臣たちは、一周忌を済ませると、上田に帰っていった。信繁の身辺は、ひとしお寂しくなったであろう。
さりながら、当冬は万不自由にて一入うそさぶく御座候。ここもとの為体、御察し有るべく候。 (当冬は何事も不自由で、一段と寂しい状態です。こちらの情けない様子を御察しください) そこもと連歌しうしん(執心)と承り及び候。このほうにても徒然なぐさみに仕り候へとすすめられ候かた(方)候へども、はやはや老いのがくもんにて成り難く候。御推量有るべく候。 (貴方は連歌に熱心だそうですね。私にも退屈しのぎにやってみたらどうかと勧める方がいますが、老いの学問でうまくゆきません、御察しください) 無聊をかこつ信繁だが、連歌を勧められても「老いの学問」で思うようにならないという。配所生活のわびしさがひしひしと伝わってくる。 また、同じ真田家の重臣で信繁の姉、村松の婿である小山田壱岐守茂誠から鮭を贈られたことへの2月8日付の礼状にも、次のような近況報告が見られる。 このほうにおいても無事に御座候。うそがぢけたる躰、市右(使者の名)物語さるべく候間、くわしく申し入れ候にも及ばず候。もはや御目にかかり候事、あるまじく候哉。 (私の方も無事に過ごしております。私のうらぶれた様子は市右が話すでしょうから、詳しくは申しません。もはやお目にかかることもありますまい。) とかくとかく、年のより申し候事、口惜しく候。我々なども去年より俄かにとしより、事の外病者に成り申し候。はなどもぬけ申し候。ひげなどもくろきはあまりこれ無く候。 (とにかく、年老いたことが残念です。去年から急に老け込んで、病身になってしまいました。歯は抜け落ちますし髭もほとんど白くなってしまいました) この頃、信繁は40代半ばであり、戦国時代とは言え決して老け込む年齢ではない。10年以上の配所での生活、父昌幸の死、赦免への絶望感が彼を一介の老人へと追いやったのであろう。 |