諭吉の母お順は、女乞食の虱をとってやるような慈善の心にあつく身分の上下に拘泥しなかった。寺には参詣するが仏像は礼拝しない。下女下男をおくこともできなかったので、母が一人で炊事をし、5人の子供の世話をしなければならなかった。したがって教育の世話などできる筈がない。諭吉はそれを良いことに手習いもしなければ本も読まなかった。しかし、さすがに13,4歳になってみると、何もしないのが恥ずかしくなって田舎の塾へ通いうようになったという。塾で習い始めると上達は目覚ましかった。塾は幾度か変えたが、最も多く漢書を習ったのは、白石照山という先生であった。「論語」「孟子」「詩経」「書経」「蒙求」「世説」「左伝」「戦国策」「老子」「荘子」さらには歴史書では「史記」「漢書」「後漢書」「晋書」「五代史」「元明史略」等を呼んだ。なかでも「左伝」が得意で、たいがいの書生は「左伝」15巻のうち3,4巻で辞めてしまうのを、諭吉は通読11回に及び、面白い所は暗記していた。こうして一通りこなして漢学者の前座くらいにはなっていたという。「左伝」は叙述が非常に簡素で、歴史上の人物の行為に対する道徳的批判の厳しいものであった。
しかし、明治11年(1878)に記した「詩集」の冒頭の文によれば、諭吉の漢学の実力は、あまり高度のものではなかったようである。
「福沢諭吉は幼にして父を喪い、教育甚だ不行届。幼少の時いろはを学び、その他に手習いしたることなし。年13,4歳、自ら起きて漢書を読み甚だ勉む。されども家貧にして習字等の暇もなく、性質これを好まず、又少年の時代に学友の気風もありて、専ら経史議論に心を用い、詩作小品文の如きは密かに軽視して学ぶ意もなし。唯学塾定式の詩会等に僅かに、五七の字を並べて責めを防ぎ、僅かも其の巧拙を争の意もあらず。之を要するに青年学生の極めて殺風景なるものなりき。経史の学は初中津藩士服部五郎兵衛先生に四書の素読を受け、前後6,7年にして、20歳のときに長崎に行きて蘭書を読み、是より全く漢字を廃して44歳に至るまで25年間、著作の引用等要用に非ざれば漢書を目に触れたることもなし」(全集第20巻)
これでは、漢学者の前座も覚束なかったであろう。諭吉は、のち二度目の大坂遊学のときにも、白石照山の世話になった。維新後も、諭吉はこの照山先生に敬意を払い、彼の著作を贈っている。照山は、帆足万里の学統であり、漢学とともに、鉄砲と算盤を重んじたというが、この照山が万里の学統であったことは、諭吉の父百助が万里に師事した事とともに万里と諭吉をつなぐ意味で重要である。また中津藩の学問の状況としても注目する必要がある。万里の孫の恒雄は、中津において医業を行っていたし、その恒雄の子の九万三という人も、やはり中津で医師であったように、帆足家と中津とは関係が深い。
万里は、嘉永5年(1852)に亡くなっているが、生まれは豊後国速水郡日出であり、日出藩の藩学教授を勤め、また家老を勤めたこともある。万里は素朴な形ではあるが、三浦梅園の影響を受けている。この梅園は万里と同じ、豊後国の国東、安岐川上流の富永村の出身である。万里は、梅園の思想を継承、発展させたという風に見られている。
梅園は、天地万物は、一つの大いなる気の無限の変化によって、生成発展の姿をとり、その中に条理があるとみている。そして、その条理を、自然認識のもっとも確実な法則として選んだのである。梅園以前は、自然を疑う事は、蔑視ないし軽視されていて、自然および社会のあらゆる事象は疑われたことがなかった。彼は、鋭い合理的知性を持ち、「何故に」と自己に問いかけて、現象形態から事物の本質を飽くまで突き止め、常識化した既成概念を打破しようとした。その意味で、梅園において初めて我が国は、合理的に物を考え、従来のあらゆる儒学的権威と伝統から解放された認識を求めてやまなかった。強靭無比の思想家を生み出したといえる。「古人の妄を拝して自ら古を為し(中略)常に疑を発して基本を究めんとし」といった副アワの言葉は、梅園のためにいわれたかのようである。
諭吉はその自伝のなかで、万里の実学が中津藩に流行していて、兄の三之助は、その実学の影響によって高等数学に通じていたこと、その兄が中津藩の門閥制度の重圧の下で憤慨していた諭吉のために、長崎に遊学する機会を作ってくれ、さらに大坂で蘭学を学ぶように配慮してくれたことを記している。
この中津藩士の間に、部分的ではあっても、万里の影響があって数学が重んじられ、それが諭吉の志向の実証的傾向を幾分なりとも助ける方に働いたであろう。 |