鷹山の家系と出自 ~筑前・秋月を領す~ |
秋月種実は種方の次男で天文14年(1545)に生まれている。弘治3年(1557)13歳のときに、大友宗麟に攻められて本城古処山城は落城した。この時、城を枕に討ち死にした勇士は数百名に達したと伝わる。 種方は山伝いに北に逃れるうち、食を求めて従臣の篠原新四郎の里に下った。その時、後をつけてきた大友の家臣小野九郎右衛門に襲われて首を落とされた。 種実は毛利元就の許へ走った。元就は種実に8百石を与え、家臣としてもてなした。古処山の戦いで敗れたとき、生き残った遺臣たちは、力を合わせて田地を取り戻そうとした。もと隈江城主の深野美濃はその中心人物で種々策を練っていたが、敵方の王ともに感づかれる気配があったので、美濃は我が子を大友に質に入れて疑いを解いた。 このようにして旧臣は隠忍を重ね、時の至るのを待った。そして秋月家の再建をはかった。この時、毛利は兵3千を残して、下関からひそかに筑前黒崎に留まった。これを聞いた旧臣が馳せ参じた。守将が府内(大分)に参賀に出て留守のところを急襲して城を陥れた。時に永禄2年(1559)であった。 その後、種実は大友・龍造寺・島津などの諸勇が覇を競う九州にあって、次第に戦線を拡大し、筑前・筑後・豊前などの11郡を手中に収め、実力36万石の領土を支配したと言われている。秋月氏の全盛期であった。 種実は戦略に長じ、特に夜襲を得意とし、戦果を挙げた。永禄10年(1567)の8月15日には種実自ら兵6千を率い、戸次・臼杵・吉弘らを攻めまくり、戸次では敵兵2万を超す陣に夜襲を仕掛け、敵将の首をはじめ426人を討ち取ったという。
これより先、天正6年には高城(宮崎県児湯郡)を攻め囲んだ大友宗麟は、これを守り支えることができず、多くの宿将を失って戦威が衰えた。島津はますます勢いを増して北進を続け、島原では僅かの兵で肥前の雄、龍造寺隆信を斬り、さらに進んで筑前から大友方の筑前を攻めまくった。 父祖以来大友を敵としてきた秋月種実は昇天の勢いにあった島津と手を結んで大友を打ち滅ぼそうとして八代に陣をしいていた島津義久の許に文を送り、同盟を結んで攻守力を合わせることを約束した。天正14年(1586)7月の事である。 南と北から挟撃された大友宗麟は助けを秀吉に請うた。秀吉は中国の毛利と四国の長宗我部に命じて大友を助けさせた。毛利の軍勢は小倉で種実の弟高橋元種の抵抗にあって進むことができなかった。長宗我部の軍は豊後に上陸する事はできたが、戸次川の戦いに敗れてしまった。 これを見た秀吉は、自ら大軍を率いて九州へ赴くことになり、天正15年3月1日の吉日を選んで大坂港を出帆し、途中、安芸の宮島に立ち寄って戦勝を祈り、3月23日赤間関(下関)を過ぎて海を渡った。 これを察した種実は、秀吉の軍容を探らせるため重臣の恵利内蔵助を派遣した。恵利は秋月家一族の子孫であった。恵利の姓も居城の名からとったものである。
恵利は浅野長政を介して秀吉に面会を願い出ると、秀吉は快く会って、秋月父子が島津と手を切ってわが軍門に降れば筑前・筑後の二国を与えよう。急ぎそれを伝えよと言って、太刀一振りを与えて労をねぎらった。 恵利は秀吉に接して、人の偉大さと軍容のさかんなるさまを感じた。急ぎ帰って秀吉の言を伝えたが、種実父子は島津との同盟こそ守るべきであるとし、秀吉に抗することに決した。 恵利は死をもって諫めることを心に決め、下僕の由利宅で妻子を刺した後、自刃して相果てた。享年38歳。 秋月のこの態度に憤慨した秀吉は、馬ヶ岳に入り、続いて岩石城攻略にかかった。蒲生氏郷を第一隊として兵2千、続く前田利長に兵3千、また羽柴秀勝に兵5千の大軍を率いて攻めさせた。城兵は弓や銃を乱射して応戦したが、蒲生の軍は城の風上に火を放ったので、本丸・二の丸が灰となり、遂に城は落ちた。 種実は3年前の天正13年、既に隠居して大隈城にいたが、敵すべからざるを知って、種長のいた吉処山に退いた。この上は降伏のほか道はないことを察した種実父子は、秋月に向かう秀吉と浅野長政らを途中の芥田に向かえて降伏し、助命を乞うた。 その時、種長の17歳の妹を質とし、天下の逸品といわれた楢柴(茶器)と金百両及び米二百石を献上した。秋月父子が命を助けられたのは楢柴のためだ、と後人が語ったと言われている。秀吉は茶を好み、名器を愛玩していたからである。 秀吉は秋月に3日滞在した後、島津を討つため薩摩に向かった。種長は先陣を命じられ、父種実は残った本城及び24の属城の破棄にあたった。 |