鷹山の家系と出自
 ~遠祖は後漢霊帝~
 


 鷹山の行動
上杉鷹山の生家、秋月家の祖先を訪ねると実に古く、約2千年の昔にさかのぼる。今の中国が漢の時代で、その後漢の時代の末期に霊帝という皇帝がいた。紀元168年から188年までその地位にあった。
その霊帝の曾孫に阿知使主(あちのおみ)という人がいて、大陸が乱れているのを嫌って、その子の都賀使主(高貴王)と共に十七の県の民を率いて、我が国に来て日本人となった。当時、日本は応神天皇の御代であった。
天皇は漢の文化を伝えてくれるものであるとして重んじ、大和の檜前に住まわせ、直(あたい)という姓と土地とを与えたばかりか、貴族として厚くもてなした。歴史上「漢ノ直」というのは、この阿知使主の子孫のことである。
この頃、日本にはまだ文字が入っていなかった。記録は全て、これら他所の国から来た人に頼らざるを得なかった。朝廷では、阿知使主の子孫を東(やまと)のふびとといい、韓国から日本に帰化した王仁(わに)の子孫を西(かわら)のふびとといって記録にあたらせた。王仁の子孫は河内に住んだので西としたのである。
「漢ノ直」の五代は名をツカといい、雄略天皇の時に、新しく設けられた大蔵の役人になった。この大蔵は、大蔵省(現財務省)の名の起源と言われている。ツカは大蔵の姓を授けられ、これ以来子孫は大蔵を名乗るようになった。
 優れた文学者を生む
推古天皇の時に、朝廷では小野妹子を当時の中国の随に使いにやった。そして日本で初めての留学生を送った。その人選は聖徳太子が当たったといわれているが、選ばれた人達の名の筆頭に大蔵家八代目の福田の名が出てきているという。この福田は隋から唐の時代にかけて留まること13年、日本に帰って大化の改新の機運をつくった人だと言われている。
9代目の比羅夫は天皇の側近に仕えたといわれているが、14代善行は特に漢学をよくし、詩や文に秀でて、多くの子弟を教育した。門人の中に紀長谷がいる。この人はのちに上杉鷹山の師となる細井平洲の先祖と言われている。
日本の歴史書の古い物は六種あって、これを六国史といい、その一つに「三代実録」がある。清和・陽成・光孝天皇の時代30年を記した史書で、50巻に納められている。この書は天皇の命を受けて作ったものであるが、大蔵善行が藤原時平や菅原道真とともに作ったものである。
善行はまた東宮学士として、17年間皇太子の為に学問を講義した学者であるが、これは後世、秋月家11代藩主種樹が明治天皇に講学したことと思い合わせて、縁の深さを考えさせられる。
文人として名を成し、天皇の側近くに奉仕していた大蔵家に一大転機が訪れた。それは善行の子対馬守春実の時代である。
 武人として名を馳せる
平将門が起こした天慶の乱にあたって春実は藤原純友討伐を命ぜられ、小野好古を助けておおいに手柄を立てた。そして征西大将軍のもとで九州の兵馬を動かす権利を与えられ、筑前原田に居を構えることとなった。以来、その地名を取って姓を原田と改めた。
この時与えられた錦の御旗は、後世江戸藩邸に所蔵されていたが、火災にあって焼失したといわれているが、その地紋は秋月家紋となった「三つ撫子」であるという。
遠く中国から渡って、聞かして日本人となり、天皇お近くに侍って文をもってあまたの業績を残した大蔵家は、部門をもって家を建てることになった。それは藤原隆家の子孫が京を下って肥後に落ち着いて菊池となり、武をもって名を成すに似ている。両家はともに宮家を守って同じような道を歩んでいた。
我が国が初めて外敵にせめられるのは、後一条天皇の寛仁3年(1019)のことである。この時18代原田種材は70歳を超す高齢であったが、藤原隆家と共に奮戦してこれを退ける功績を上げた。
時を経て23代原田種直は、屋島から安徳天皇を迎えて、自分の邸宅を行在所とし、平家を助けたが、これがあだとなって領地を没収され、そのうえ、鎌倉の扇谷に捕らわれの身となって13年の間、苦難の月日を過ごした。
種直の弟種雄は梶原景時が鎌倉幕府に背いて幕府を打ち倒そうとしたとき、九州の武田有義が梶原に与しようとしたのを幕府に知らせて未然に防ぐことができた。その功によって建仁3年(1203)に将軍頼家から秋月(福岡県甘木市)の庄を与えられ、家を再建することができた。この時、地名を姓として秋月を名乗った。種雄は秋月の祖とされている。





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