名君・上杉鷹山
 ~勤労の実践~
 


 積極的に農村を巡見する
鷹山の行動は、藩政改革の目標に沿い、またそれを一貫してリードする一面をもっていた。改革の基本には、農業振興の政策として、本百姓中心の農村の復興策がある。これらを精神的に支え、蘇らせるためには、安永元年(1772)3月、中国古代の周・漢の制度に倣い、耕作を重んずる「籍田の札」をはじめた。城南の遠山村に四反歩の田地を選び、鷹山の鍬打ちに続き、奉行・代官・肝煎、そして作男が続く、毎年の儀礼である。
改革が始まるとともに、各地で荒野の開発が進められたが、鷹山はこの巡視に積極的であったことが「上杉家御年譜」によって知る事ができる。安永4年(1775)5月6日から12日にかけて、下長井地方を廻っている。その目的は「御鷹野」といい、本来は鷹を放って鴨などの獲物をとる遊覧にでかけることであったが、実際は開墾地の巡視であった。その一行は、6日午前10時に米沢を出発し、それぞれ出役の案内で、糠野目開発をはじめ、渡場・川欠の開発地を見たあと、船で松川を下り、長いの小出に向かっている。7日は、宮原・平山や野川の大〆切」、8日には、小出の筒屋(藩の蠟製造所)、籾蔵、宮村の青芋蔵・上米蔵・成田免女などを見廻ったあと、舟で森ノ瀬・亀森などの景勝を遊覧した。9日は船で荒砥へ下り、十王・荻野中山を通って滝野村の虚空蔵尊へ参詣した。これは白鷹山頂にあり、歴代藩主に尊崇されていたふぁ、特に鷹山の信仰が篤く、後に名乗った鷹山の号もこの山の名によると言われている。またこの周辺で一行は、漆苗畑や植立の杉林を巡視し、畔藤・浅立を廻り、宮渡しで松川を越えて小出に戻っている。また10日は、再び荒砥開発・荒砥館・菖蒲陣屋のあと、高岡・黒滝・古四王原、鮎貝役屋・四松川原開発・鮎貝八幡宮を廻っている。宿泊は5泊とも小出の竹田四郎兵衛宅で、巡視したところは新しい開発地・藩の事業所・出張役所であり、またこの地方の主要な神社であった。「放鷹矢魚」の遊覧は、10日の1日だけであった。
 家中による手伝い―開発場
歴代藩主の下長井遊覧は、古くからの年中行事であった。成田村佐々木家文書の「御本陣記録」によると、享保4年(1719)2月、駿河守勝周(米沢新田藩主第一代)の二夜宿泊のこと、延享3年(1746)2月、藩主重定一行29人が六夜宿泊していることが知られる。その後、鷹山・治広・斉定の時代にもこの行事は続いた。しかし鷹山の時代は、鷹狩りも見られたが、それ以上に農村の巡視が実際の目的になっていたことが多いのである。
巡視は農民の開発状況だけでなく、家中による手伝い―開発場についても熱心に行われた。安永4年6月には、やはり「鷹野」の名目で、御手伝場所と称する、例えば、郡割所の普請、割出町の土橋架け替え、田畑起し、川除土手の築立、その他、西藤泉村・西江俣村などにおける諸士手伝いによる開墾状況を巡視している。安永8年9月にも、下長井の中善寺平・柏原など開発地を3~4日にわたって廻っているが、このときは、奉行・小姓頭・中之間年寄など、藩政の首脳部14人を引き連れての巡視である。
安永2年から3年にかけての、家中の労働奉仕は、延べ人数1万3千人余といわれたが、藩政成立以来、まさに前例を見ないほどの大規模なものであった。これに対して一部の承久家臣からは反発もうけ、安永2年6月の七家騒動の理由の一つともなっている。多数の藩士を開墾などに手伝わせることは、「鹿と馬と仕候世上二御座候」というものであった。





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