上杉鷹山の登場
 ~藩主と重臣の対立~
 


 政務家老免職という異常事態
米沢藩の財政は逼迫し、借財の返済も滞り、借金をしようにも金主が見つからない状態で、財政運営は麻痺していた。
宝暦14年(1764)2月14日、米沢城二の丸では、政務家老・侍頭の重臣による会議がもたれた。その6日前の2月8日、政務家老の千坂、色部、芋川、広居の4名が、藩主重定に対して、財政運営の見通しが立たないことから政務家老の免職を願ったからである。政務家老芋川は9日から出勤していなかった。
この会議では、政務家老の申し出に強い反対の意を述べた本庄が、政務にも関与することになり、千坂が「御政事」、本庄と須田が「御続道」(財政)を監督することで落着した。藩中枢部でも政務家老が免職願いを提出する異常事態に至ったのである。このような状況の中、4月3日に藩主重定は参勤出府のため江戸へ発った。
 藩主重定の無責任さ
宝暦14年は6月に明和と改元した。6月に米沢藩の勘定方では、この年の10月から翌年9月までの予算案を作成したが、約3万両の不足となる事が明らかになった。この不足金の額は米沢藩の貨幣蔵入額にほぼ相当した。国許の評議においては、この3万両の不足金について、これ以上の支出削減は無理であり、新しい融資者を探すことも困難であり、さしあたり打開策もないこととして、この旨を江戸藩邸へ報告した。江戸藩邸でも米沢表において近国まで金主を探すように指示する他なかった。結局、重定は、江戸藩邸において重臣による財政評議の必要を承認し、須田を急遽国許へ派遣し、本庄、広居に出府を要請した。8月11日、江戸を出立した須田は18日に米沢に着き、上意を伝えた。9月16日、須田、本庄、広居は江戸藩邸での重臣評議のため米沢を発ち、23日に藩邸に入った。
9月29日、藩主の面前で評議が予定された。この日、小姓頭からは重臣に対して、藩主居間に詰める前に竹俣当綱の「小屋」に集まってくるよう指示があり、本庄、須田、広居それに色部の4名は竹俣のところに赴いた。ところが、重定の近習等2名が上使として以下のような内容を伝達したのである。
「このたびの御用の向きはどのような内容であるのか、重定は用向きを充分承知していないが、財政運営困難につき評議するということであろう。もし重定が用向きの内容を承知しても下知を下すことはしないので、財政問題をはじめ政治については任せるから、、宜しいように取り計らうよう」
重定は、このたびの評議及び政務執行には何ら関わりをもたないから、勝手にやるようにと言ってきたのである。伝言の内容は、重定が藩主として果たすべき務めを自ら放棄しているか、または重臣に対して拗ねているとしか捉えられないものであった。
 藩主重定と竹俣当綱との間の亀裂
5人の家老はこれに対し、重定に面会して用向きの内容を進言して、藩主の承認を得て政務が執行されるのであるから、まず面会したい旨の反論を述べた。面会が叶い、5人の家老は、この難局を乗り切るには重定が藩主として政務に出精しなければならないことを専ら諫言した。重定は諫言を聞き容れたという。江戸藩邸では重臣による評議は昼夜となく続いた。
5人の家老は1か月後の10月29日、重定への評議の内容を報告、改めて向こう1か年の予算書と藩政改革執行の要綱書を提出した。その内容は不明であるが、対幕府支出を第一としてこれは削減し難く、内政に関する支出はできるだけ削減し、国許の行政機構を整理縮小しようとするものであった。藩主に関する支出も削減された。
江戸での表情を終えた本庄、広居、須田、色部は11月中旬に国許へ帰った。出発前に、重定は評定の五家老を労う饗宴を催した。しかし、竹俣は要務があると称して、これを欠席した。藩主重定と江戸家老竹俣当綱との間には感情的に埋めがたい亀裂が生じていた。





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