上杉鷹山の登場 ~藩主と重臣の対立~ |
宝暦14年(1764)2月14日、米沢城二の丸では、政務家老・侍頭の重臣による会議がもたれた。その6日前の2月8日、政務家老の千坂、色部、芋川、広居の4名が、藩主重定に対して、財政運営の見通しが立たないことから政務家老の免職を願ったからである。政務家老芋川は9日から出勤していなかった。 この会議では、政務家老の申し出に強い反対の意を述べた本庄が、政務にも関与することになり、千坂が「御政事」、本庄と須田が「御続道」(財政)を監督することで落着した。藩中枢部でも政務家老が免職願いを提出する異常事態に至ったのである。このような状況の中、4月3日に藩主重定は参勤出府のため江戸へ発った。
9月29日、藩主の面前で評議が予定された。この日、小姓頭からは重臣に対して、藩主居間に詰める前に竹俣当綱の「小屋」に集まってくるよう指示があり、本庄、須田、広居それに色部の4名は竹俣のところに赴いた。ところが、重定の近習等2名が上使として以下のような内容を伝達したのである。 「このたびの御用の向きはどのような内容であるのか、重定は用向きを充分承知していないが、財政運営困難につき評議するということであろう。もし重定が用向きの内容を承知しても下知を下すことはしないので、財政問題をはじめ政治については任せるから、、宜しいように取り計らうよう」 重定は、このたびの評議及び政務執行には何ら関わりをもたないから、勝手にやるようにと言ってきたのである。伝言の内容は、重定が藩主として果たすべき務めを自ら放棄しているか、または重臣に対して拗ねているとしか捉えられないものであった。
5人の家老は1か月後の10月29日、重定への評議の内容を報告、改めて向こう1か年の予算書と藩政改革執行の要綱書を提出した。その内容は不明であるが、対幕府支出を第一としてこれは削減し難く、内政に関する支出はできるだけ削減し、国許の行政機構を整理縮小しようとするものであった。藩主に関する支出も削減された。 江戸での表情を終えた本庄、広居、須田、色部は11月中旬に国許へ帰った。出発前に、重定は評定の五家老を労う饗宴を催した。しかし、竹俣は要務があると称して、これを欠席した。藩主重定と江戸家老竹俣当綱との間には感情的に埋めがたい亀裂が生じていた。 |