上杉鷹山の登場 ~森平右衛門謀殺~ |
竹俣当綱及び国許の政務家老千坂高敦、色部照長、芋川正令の4名は、森平右衛門を斬殺した理由として森の罪状を、重定の左右に側して藩政を牛耳り、同人の了解を得なければ諸処の用件も執行できず、諫言も通じず、君臣の間を隔てている。また、藩の財政は逼迫し、城廻りは大破、家中は衰微してその居宅は破れていながら、森平右衛門の門庭・屋敷は豪奢であり、その費用が公金の流用であろうことは世上の風聞にもみられる等々、23カ条にわたって掲げている。今や森は「半国之地頭も同然であり、このままでは「御家之御大事」に至るので、このたびの行動に及んだというのである。 森謀殺の直接の契機となったのは、この年1月に、米沢藩政に関する幕府への箱訴があったからである。内容は不明だが、米沢藩の政道が乱れていること、特に去年中は借上げも強化され、家中は飢寒に及び、政治も乱れているとの内容であったようだ。この箱訴の情報は、老中酒井忠香を情報源として、米沢藩江戸藩邸にもたらせたもので、前年も同様の箱訴があったが、それは破棄になったこと、このたびは幕閣において評判となっており、破棄になるかどうかはわからないとのことであった。
藩主重定は、森謀殺については当然事前に知らされてはいない。この事件を報告するため、江戸家老竹俣当綱、政務家老芋川正令、侍頭本庄職長は江戸へ出府した。それに先立って、2月11日、彼らは政務家老3名、侍頭5名、それに竹俣当綱の9名による連判の申し合わせを確認した。その内容は、①森謀殺については侍頭も同意したこと、②この件を藩主重定に報告し、もし重定がこの措置を承知しない場合は、侍頭は政務家老に与してこれを擁護し、一致団結して重定に了承させること、③藩政を刷新して改革に着手すること、④藩政改革を重定に迫り、もし藩主が承引しない場合は、一門の方にも働きかけて藩主の改革実施の覚悟を固めさせるとともに、家老・侍頭は一致協力して藩主に改革実施を迫ること等であった。 竹俣当綱は藩主・近習ラインの解体を図るとともに、近習に反感を持つ国許の家老等重臣連中の取り込みによって政務家老・侍頭の藩重臣のラインを確立したのである。 しかし、藩主・近習ラインはその後も存続した。反省のみるべき刷新は容易に着手されなかった。 この年8月、上杉家中11名が、尾張徳川家中の者に対して、徳川宗勝を動かして米沢藩政の改革を重定に促してもらうように依頼している。徳川宗勝は重定の義父にあたり、森の一件では、尾張藩家老が度々江戸米沢藩邸へ赴き、その収拾に努力した経緯があった。
7月28日、地侍の本庄、須田は重定に召喚され、郷村撫育の御用掛、すなわち表家老のまま農政を専ら担当することを要請された。両名は郷村における6万石の荒地開発には「器量之人を任ぜられるよう進言し辞退したが、遂に就任を承諾した。本庄は「1年も相務御用掛御徐之儀は訴訟」する心積もりで承諾した。初めから1年くらいで辞めるつもりであったのである。 受け身の重臣を農政担当に起用したことで、家中は重定に藩政改革のやる気がないと判断したのである。重定は近習に森平右衛門の一派のものをなおも重用していた。8月に上杉家中の者11名が尾張藩に働きかけをしたのは、このような推移があったからである。彼らは、藩政改革が遂行されないのは重定についている政務家老が政治改革に着手せず、忠義の政務家老も穏便に過ごしているからと批判したのだ。 彼らが藩政改革の早期実施を求めたのは民情不穏の認識がその根底にあった。この夏の小物成徴収は、政務家老の指図によって昨年夏に比べて非道の取立が行われたとし、今年9月から米穀の新収納までに政治改革に着手し、非道の取立が改善されなければならないという危機意識を持っていた。藩政改革を求める家中は、借上げ強化への不満、民衆支配の危機意識から、次第に藩政執行部への批判と改革実施の突き上げを激しくしながら、藩政改革を巡ってお家騒動による家中分裂の可能性がある事も憂慮していた。 |