上杉鷹山の登場
 ~名門上杉家へ~
 


 米沢城へ
明和6年(1769)10月27日、上杉治憲(後の鷹山)は初めて米沢城へ入った。謙信から数えて十代目にあたるこの藩主は、家督を継いで二年半が経過していたが、これが初めての入部(国入り)であった。
治憲は、当時数えで19歳、米沢藩では若き藩主の初入部の諸行事が進められた。11月3日からは家臣の「初入部御礼」が始まった。恒例の初入部祝の料理・酒の下賜は財政逼迫のために赤飯・酒に簡略化されたが、家中(家臣)が驚いたのは、治憲が前例のない足軽等の下級家臣まで引見し、詞を与えるという行動に出たからである。これは異例であった。治憲はこの措置について、養父で前藩主の重定にあらかじめ伺いを立てたが、重定は下士に詞を下することは家格を軽くするとの理由で反対した。しかし、治憲は、他家から入って上杉家を相続したのであるから、家中と親しむ必要があるとして自ら一代限りの特例として認めてくれるように、重定に懇願したという。治憲が初入部においてみせた家中に対するかかる姿勢は、新たに藩主への威信を回復し、藩政再建のために家中の結束を図るという意図が秘められていた。
 借金だらけの上杉家
治憲が初入部祝の儀式において家臣に与えた詞は、「これまで連年として物成を借り上げており各々の艱難は十分に承知しているが、財政窮乏のため借上げを停止できない事情を理解するとともに、これからも勤めに精を出し励んでもらいたい。このたび入部祝として酒をつかわすので、ゆっくりと飲んでくれ」というものであった。
借上げとは、藩が家中の知行地から上納される貢租(物成)や家中へ支給される俸禄米の一部を藩庫に繰り入れることである。この事実上の家禄削減を意味する財政策は、18世紀以降に財政逼迫の諸藩で一般化した。米沢藩では享保年間から借上げが恒常化し、治憲が入部する頃では借上げ高は家中の知行高の半分まで達していた。
米沢藩は会津から米沢への転封の際に領地高が減少、さらに寛文4年(1664)に30万石から15万石に半減されて、領地高に比して家臣数が多く、小禄の家中を多く擁していた。家中からの借上げ政策は、一層彼らの生活を圧迫したのである。
このため、下士層のみならず、中士層まで宝暦半ばには内職をするのが当たり前になっていたという。上士層も借上げの強化から生活が困窮し、家来に暇を出したり、武具を質入れするなど士風の頽廃化が進んだ。無刀または脇差のみで歩行し、上士層のうちにも銭湯に入るなどの事例も見られたという。宝暦5年(1755)9月には下士の一部が「徒党」を組み、城下周辺の百姓を駆り集めて五百人前後で、城下の米穀商・酒屋などに打ちこわしをかける事件が起こった。凶作による米価高騰も要因の一つであるが、家中の一部が打ちこわしの首謀者となった事件は、藩を震撼させるものがあった。
 家中の統制が弛緩
宝暦期には米沢城下に不穏な状況が見られた。
①、諸所において、稽古のため集まって謡興などをしていると、若輩の者が、頬包みをして屋敷内や玄関まで入り込み、声高に善悪の評判をし、門柱や雪垣などを壊し、礫を打ち込むなどの所業が見られる(宝暦元年)
②、近年は端々でも騒がしく、歴々の者でも不似合の風体で狼藉を働く者がいる(宝暦7年)
③、今年は藩主が江戸参勤で不在であるが、家中の統制が緩んでいることが聞かれる。先日も火事が起こり、放火であるかもしれないが自火として処理された。なんとなくやかましい状況が見られる。家中へ悪者が入り込んでやかましい状況が聞かれるので、徒目付をして昼夜を問わず巡回させることにする(宝暦10年)
宝暦13年(1763)は、家中借上げの実施されなかった珍しい年である。享保期以来、幕末まで毎年続いた家中借上げは、この年のみ実施されていない。実施を困難とする政治状況があったとみるべきかもしれない。




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