信玄の用兵法 ~各大将の戦術比較~ |
越後の上杉謙信は、将来不利を生じることには構わず、目の前にある戦闘を避けるまいとされる。これは水の出た川を無理に渡ろうとするのと同じやり方である。また有力な敵と戦った時には、粗雑な退却ぶりを見せ、加賀、越中、または関東碓氷峠などで敗戦を経験している。しかし信玄公に対しては、強引に攻勢に出てこられた。 織田信長は、いったん包囲した城の囲みを解いて退いたり、国境付近の小城をいくつも攻め落とされたりしても苦にせず、味方の軍勢が破れて退却しようとも、追撃されて討たれない限り、世間がなんと言おうと無視して、困難な時にはさっさと退き、間もなく再び出て勝利をし、多くの国を取って大身となりさえすれば、結局は天下に名をあげられるものだという生き方である。 信玄公は、作戦の失敗が無いように敵をよく調査し、無様な退却をしないようにされる。包囲した城を、敵の援軍を見て囲みを解いて逃げるようなことがないようにされる。出陣前の訓練を十分にしてから出陣される。およそ、領内の小城をただ一つも敵に取られぬように、また将来の勝利を得る条件を無にしないようにしておけば、末代にまで名を残すことができるものである。 また、国を多くとって治めていけば、幸運に恵まれて失敗をせず、名誉を得、寿命を長く保つことによって、我が国六十四州の主ともなり得るのだと仰せられた。 信玄公の戦いのなされ方は、御小旗の文字にお書きになった、次の四か条の通りである。 「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵奪する事火の如く、動かざる事山の如し。」 あるときは静、あるときは動、千変万化し、しかもその変化は、敵方には予測のしようもない。これが武田流軍学の核心とされている。このような戦い方ができるのは、指揮者が優れた判断力を持ち、しかも全軍が一兵卒に至るまで固く結束し、指揮者の命のままに一体となって動かねばならない。 |