慶喜の出自とその兄弟 ~父・斉昭~ |
天保8年の頃は、父斉昭は38歳、水戸藩主に就任して9年目にあたり、水戸藩天保改革の真っ最中であった。斉昭は兄斉脩の跡を継いで、第9代藩主に就任したのが文政12年(1829)10月17日であるが、翌18日には重臣たちに手書を下して、新藩主としての所信を表明するとともに、藩政改革への強い意欲を示したのである。 斉昭が新藩主として藩政を改革する決意の背景には、18世紀後半からの幕藩体制の政治的、財政的弱体化の傾向が、急速かつ顕著に表面化する反面、ロシアの使節ラックスマンの根室来航をはじめとして、欧米列強の圧力がひしひしと感じられたからである。文政7年(1824)5月末、水戸領の北端大津浜へイギリス人12名が上陸した事は、水戸藩の士民に大きな影響を与えた。水戸藩の著名な学者藤田東湖が、異国人を斬ろうとしたのはこの時であり、会沢正志斎が「新論」を著して内政改革の必要性を強調し、尊皇攘夷運動の先駆けとなったのが文政8年の3月である。
そのような空気であったから、水戸家としても恒之丞を養子にというのはいわば常識的であったのである。また将軍家より養子や嫁を迎えるというのは、実は財政的にも様々な特典があった。峰姫が斉脩夫人となってからは、幕府からの助成金(永続金)は倍増して毎年1万両になったばかりか、長年にわたって幕府から借りていた拝借金9万2千両も棄損となっているのである。将軍家より養子を迎えるのは、それなりの理由があったのである。従って水戸藩政を預かる重臣からは、何の利益もない斉昭より、将軍家からの養子の話が強まるのも当然であった。 だが水戸では、東湖の父藤田幽谷が斉昭を推挙し、次第にその運動は活発になっていった。そして文政12年(1829)5月頃、斉脩の病状が悪化するに伴い、斉昭擁立運動は表面化し、また清水派の運動も激化した。同年10月はじめ幽谷の門下生を中心に40余名が斉昭擁立のため、水戸から江戸に上って、各方面への陳情運動を始めた。彼らは江戸の同十数名とともに、斉昭擁立の運動を行った。 彼らが江戸に着いた翌日、斉脩は没し、斉脩の遺言状によって斉昭の藩主就任はようやく実現した。藩主に就任した斉昭は、今までの藩政に対する批判と、それを改めて藩政の前進を図ろうとする意欲に満ちていた。当然、側近の多くは斉昭の擁立派=改革派たちによって占められていた。斉昭の意気込みに呼応するかの如く、斉昭擁立派の中心人物藤田東湖や青山延光らが、斉昭に封事を上呈して藩主の政治が「中興一新の大業」である事、人材登用を重視すべき事、士風の刷新を図る事などを強調した。
水戸藩天保改革の主な点を挙げると、一、質素倹約の励行、二、武日の充実、三、学校の建設と教育の充実、四、財政の再建、五、殖産興業策、六、検地と農村対策、七、社寺改革などで、この時期に行われた他藩の改革や、老中水野忠邦による幕府の天保改革とはその規模において、比較にならないほど大掛かりなものであった。とりわけ武備の充実に関する追鳥狩という軍事訓練、藩校弘道館の建設と郷校設置による学問の興隆、藩政開始以来二度目の本格的な全領検地、そして斉昭失脚の原因ともなる強烈な社寺改革など、就任早々にして斉昭は全力で藩政改革に身を挺したのである。 藩主就任にあたって、その就任を歓迎しない保守門閥派に対し、中下層の藩士層に支えられた斉昭が、藩主就任後その擁立派を側近として、思い切った改革政治を進めていったのである。そしてこのような水戸藩政の進む空気の中、幕府最後の将軍となる慶喜は誕生した。少年期の慶喜に、このような藩内の情勢が影響を与えないはずがなく、事実大政奉還・鳥羽伏見の戦後江戸にもどった慶喜は、新政府の東征軍が進む中、水戸に戻って、父斉昭の建設した藩校弘道館の一遇、至善堂に身を置いたのも、水戸に対する大きな信頼があってのことだろう。に |