徳川慶喜の人物像 ~凡庸な徳川将軍~ |
二代秀忠、三代家光は、家康のそれに比べるとやや劣ると思われる。それでも創業期の彼ら二人は、その後の将軍たちに比べればいさすがにレベルは高く、幕政の安泰に寄与したといえる。 そこから幕末期に入ろうとする天保期まで、十一代将軍家斉に至る間の将軍は、様々な逸話などもあろうが、八代将軍吉宗以外は、さほど目立った事績はなく、凡庸といってしまっても言い過ぎではないと思う。五代将軍綱吉は、学問を重視し、理想が高い治政を展開したかったのだろうが、それでも「生類憐みの令」で、人間以上に犬の方がたっぷり食事があるなどという話は、やはり狂気の沙汰である。
このことは将軍家だけでなく、大名家でも同じである。家老の上申を「そうせい」(そのように取り計らえ)と、いわゆる「盲判」を押してくれなければ、家臣はやりにくかった。ともかく将軍にしても大名にしても、絶対に反抗できない専制者であり、その一言で首が飛べば、俸禄も失うのであり、逆に加増もされるのであるから、誠に恐ろしい存在であり、ひたすらその意を迎えなければならないが、それだけに明敏であるという人物では仕事がやりにくかったのである。(これは現代の世でも通じる部分があるかも ( ;∀;)) 将軍の殆どが平凡な人物になってしまうのも、これまた当然の話であった。特殊な環境の中で成長し、周囲の人間は全部その意を迎えようとして平身低頭していては、まともな人間になるはずがない。
将軍の中で八代吉宗は別格としているが、彼がいわゆる享保の幕政改革を推進したことは有名であり、自分自身質素倹約に努めたり、武技の習得などに努めている。だが改革はあくまでも支配層中心のものであり、幕府権力の立て直しを図ったものに過ぎない。税法などを見ても、これまでの四公六民が五公五民と増加している。武芸奨励といってしばしば鷹狩りを行っているが、これは耕作農民にとって迷惑至極な話であった。多くの史家が吉宗を英主とか名君とか述べているが、庶民にとっては「迷君」であった。 このような将軍が続いて、良くも260年間の泰平の世が続いたと思われるだろうが、実際にはこのような将軍たちであったからこそ余計なことをせず続いたともいえる。しかし、そんな幕府政治が永遠に続くことはさすがになく、やがて開国、討幕という激動の世に、徳川慶喜の登場となるのである。 |