徳川慶喜の人物像
 ~凡庸な徳川将軍~
 

 凡庸な将軍の治政
江戸幕府十五代の将軍の中で、政治的・軍事的手腕に秀でた人物といえば、やはり幕府創業者の徳川家康であろう。創業というものはやはり困難であり、それを乗り越えて幕府権力を確立していった家康は、時の流れにも恵まれ、また多くの有能な家臣に助けられた。家康の成功は、彼一人の力量によるものばかりではないが、武将として非凡な才能の持ち主であったことは間違いないだろう。もっとも家康は、次第に神格化され、優れた人物であることが強調されすぎているが、それでも歴代将軍中、第一級の人物は彼だといえよう。
二代秀忠、三代家光は、家康のそれに比べるとやや劣ると思われる。それでも創業期の彼ら二人は、その後の将軍たちに比べればいさすがにレベルは高く、幕政の安泰に寄与したといえる。
そこから幕末期に入ろうとする天保期まで、十一代将軍家斉に至る間の将軍は、様々な逸話などもあろうが、八代将軍吉宗以外は、さほど目立った事績はなく、凡庸といってしまっても言い過ぎではないと思う。五代将軍綱吉は、学問を重視し、理想が高い治政を展開したかったのだろうが、それでも「生類憐みの令」で、人間以上に犬の方がたっぷり食事があるなどという話は、やはり狂気の沙汰である。
 平和の世には凡庸の方が都合が良い
幕府運営者にとっては、将軍が凡庸である方が都合が良かった。すでに幕府の権威が確立し、基礎が強固となった時に将軍があまり直接政治にくちばしを入れては、老中らにとっては迷惑なことであった。封建支配の原則ともいうべき「先規先例」を守っていく政治方針であり、飾り物の将軍はただ「よきに計らえ」といってくれなければ困るのである。我を張って、政治向きにまで色々と文句を付けられてはお手上げである。
このことは将軍家だけでなく、大名家でも同じである。家老の上申を「そうせい」(そのように取り計らえ)と、いわゆる「盲判」を押してくれなければ、家臣はやりにくかった。ともかく将軍にしても大名にしても、絶対に反抗できない専制者であり、その一言で首が飛べば、俸禄も失うのであり、逆に加増もされるのであるから、誠に恐ろしい存在であり、ひたすらその意を迎えなければならないが、それだけに明敏であるという人物では仕事がやりにくかったのである。(これは現代の世でも通じる部分があるかも ( ;∀;))
将軍の殆どが平凡な人物になってしまうのも、これまた当然の話であった。特殊な環境の中で成長し、周囲の人間は全部その意を迎えようとして平身低頭していては、まともな人間になるはずがない。
 大奥で甘える
将軍家には大奥という存在があり、そこは女護が島であり、ハーレムである。周囲は女性ばかりであって、しかも将軍の手付けを待つ女性陣が待機している状態では、凡夫の浅ましさ、セックスに深入りしてしまう人も出た。その結果、かえって全く子女のない将軍もいれば、逆に多くの子女が出来過ぎる将軍もいた。十一代将軍家斉は、側室四十人、子女は五十五人にも及んでいるが、彼はそのためだけに将軍として存在したといっても過言ではない。
将軍の中で八代吉宗は別格としているが、彼がいわゆる享保の幕政改革を推進したことは有名であり、自分自身質素倹約に努めたり、武技の習得などに努めている。だが改革はあくまでも支配層中心のものであり、幕府権力の立て直しを図ったものに過ぎない。税法などを見ても、これまでの四公六民が五公五民と増加している。武芸奨励といってしばしば鷹狩りを行っているが、これは耕作農民にとって迷惑至極な話であった。多くの史家が吉宗を英主とか名君とか述べているが、庶民にとっては「迷君」であった。
このような将軍が続いて、良くも260年間の泰平の世が続いたと思われるだろうが、実際にはこのような将軍たちであったからこそ余計なことをせず続いたともいえる。しかし、そんな幕府政治が永遠に続くことはさすがになく、やがて開国、討幕という激動の世に、徳川慶喜の登場となるのである。




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