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 朝倉義景の治政
 ~信仰心篤き当主~
 


 先祖の供養
朝倉義景の時代は朝倉氏の先祖の遠忌の節目にあたっていた。まず義景が家督を継いだ翌年の天文18年12月20日、朝倉家景の百年忌が弘祥寺で行われた。この時は義景の叔父にあたる朝倉景紀が名代として参列した。家景は初代朝倉孝景の父で、法名を固山良堅といった。弘祥寺は朝倉氏として初めて越前に入った朝倉広景が一乗谷の北西約14キロメートルに位置する安居の地に建立した越前朝倉氏の氏寺で、南北朝期の康永元年(1342)に曹洞宗宏智派の別源円旨を開山に招いて創建された。円旨が亡くなる直前の貞治3年(1364)10月1日、弘祥寺は諸山に列し、その後応永19年(1412)11月25日に十刹となり、越前で最も格式の高い禅宗寺院となった。
天文20年2月29日に義景は、この朝倉広景の二百年忌の法会を行った。そしてその十一年後の永禄5年7月19日には初代孝景の祖父教景の百年忌法会を弘祥寺で行い、自ら参列した。このように義景の時代は越前朝倉氏の祖広景から二百年、初代孝景の父祖から百年の節目にあたっていた。この間、義景は父孝景の三年忌、七周忌、十三年忌などの法会を本宅で執り行い、建仁寺の高僧を招いて香語を説法させた。永禄7年3月22日には、父孝景の十七年忌法事を行った。以上の様に朝倉義景は、先祖や父親の供養の法要を滞りなく済ませ、朝倉氏の当主としての務めを見事に果たしている。
 赤淵大明神
また義景は、氏神の赤淵大明神を崇敬した。赤淵神社は「延喜式」にも載っている但馬の古い神社で、平安末から鎌倉時代に但馬国の朝来郡から養父郡に勢力を広めていった朝倉氏や八木氏など日下氏の氏神として崇敬された。現在は兵庫県朝来郡和田山町枚田に鎮座しているが、その本社で、越前朝倉氏も一乗谷に赤渕神社を勧請した。城戸の内には「赤淵」という小字があり、「一乗谷古絵図」にもその付近に「赤淵明神跡」という注記があるので、朝倉時代にその付近に赤淵大明神の神社があったことは確かであろう。また一乗谷の山城の郛のひとつにも赤淵神社跡と伝えられる場所がある。ただし、いずれも勧請された年月日や神社の遺構については不明である。記録に残るところでは大永3年(1523)に四代朝倉孝景が館の艮に一寺を建立し、その鎮守として赤淵大明神を勧請しようとして京都の神道家吉田兼満に遷宮の日時や次第を諮っていることが「赤淵大明神遷宮次第」に見える。
 崇敬心に篤い義景
義景は赤淵大明神を特に崇敬し、永禄3年、心月寺の才応総芸に「赤淵大明神縁起」を書写させた。そして翌4年、大覚寺義俊から三条西公条を通じて正親町天皇に「赤淵大明神縁起」を奏上し、宸筆の外題の染筆を許可された。翌5年9月、義景はその御代として樽代千疋を禁裏に進上した。また但馬の赤淵神社には朝倉義景と朝倉景連の書状が一通ずつ残っている。義景の書状は花押の形状から、永禄5年から7年ころのものと思われるが、赤淵別当坊から当月祈祷の巻数と札、牛玉、御供そして名物の朝倉山椒を贈られたことの返事であり、義景はその返礼として銭三百疋と白綿二把を贈っている。景連は朝倉氏の同名衆だが義景の申次や奉行人を務めた人物で、義景が但馬から赤淵神社の末社の正勝明神、山谷明神、日下明神の三社を越前に分祀するよう要請したことを伝えている。このように永禄年間の初めころ、義景の赤淵大明神への崇敬が特に強まり、また但馬の本社とも交流が深められたことが知られる。以上の様に朝倉義景は若くして朝倉氏の家の体制を支える先祖や氏神に厚い敬意を払い、朝倉氏の永続を願った。




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