朝倉義景の治政 ~全盛期の継承~ |
義景の幼年期について詳しいことは不明だが、天文6年5歳の時、「長夜叉」という幼名がつけられていたようで、「夜叉」は仏法を守護する鬼の一種で、北方をつかさどる毘沙門天の眷属とされている。越前守護の嫡子として、京都の北方を守護すべきとしての期待がこの幼名に込められていたのかもしれない。この年、将軍足利義晴の室近衛氏が、長夜叉の母に服を送っている。義晴の近臣で申次の大舘晴光は9月13日、朝倉孝景に書状を送り、そのお礼を申すべきことを伝えた。その際に、加治左京亮という人物が幕府の使者として見える。加治氏は越前の国人で、近衛家当主の近衛尚通の母親の里だった関係から近衛家と親しく、加治左京亮も尚通に見参している。義晴の室はこの近衛尚通の娘で、義晴の没後、出家して慶寿院と称した。彼女は前年に長男(のちの足利義輝)を生んでおり、この贈答は孝景がこの御産によく奉仕したことに報いたものである。将軍足利義晴は、この御産の御産所御祝要脚を細川晴元、河内守護畠山氏、能登守護畠山義総、若狭守武田元光ら諸国に課したが、孝景は期限にあわせていち早く請文を提出し、この出産費用を納めた。義晴はこうした近国の守護の奉仕に支えられていた。朝倉義景は朝倉氏が将軍家や近衛家と強い関係を形成した時期に、その幼年時代を送っている。
まず永正13年(1516)白傘袋等の使用を許され、ついで足利義晴の御伴衆に加えられた。天文4年には塗輿に乗ることを許され、同7年ついに御相伴衆に列した。御相伴衆は幕府において管領に次ぐような高い身分格式で、ひとつの家格である。朝倉孝景・長夜叉父子が、この御相伴衆昇格の御礼を進上した記録が残されているが、孝景父子は単に将軍の義晴に御礼を進上するだけでなく、義晴の嫡子義輝にも、それぞれ御礼を進上している。当時、長夜叉は6歳、義輝は3歳に過ぎないが、それぞれの家の嫡子としての地位が定まっており、独自の人格として認められている。
その後の将軍義輝と延景の関係を示すのが、一字拝領と官途の挙任である。天文21年、延景は将軍義輝の「義」の字を拝領して「義景」と改名し、左衛門督に任じられた。この「義」という字をもらうことと、朝倉家の官途である弾正左衛門威によらず、主家斯波氏の官途の左兵衛佐をも超えて衛門府の長官である左衛門督に任じたのは朝倉氏の先例から見ても、他の大名から見ても異例のことだった。 この孝景と義景の幕府における格式の上昇や異例の官途については、単なる幕府の衰退による栄典の乱発の一例とみなされてきたが、足利義晴父子に対する朝倉氏の永年の軍事的・経済的貢献を考え合わせると、決してそうではない。また義景の官途と字拝領の御礼進上が義輝だけでなく彼の母親の慶寿院や乳母に対してもなされているのを見ると、義景はそうした女性たちと親しい関係を築きつつあったことがうかがえる。その後、永禄2年11月9日に義景は従四位下に叙された。 |