将軍後見職時代
 ~慶喜の権限~
 

 後見職の性格とは
「将軍後見職」とはいかなるものなのだろうか。将軍の13歳から17歳まで後見職を勤めた人物が退いた後に、新任の後見職たる慶喜が、17歳という微妙な年齢の将軍と、老中たちの間で、どのような位置関係になるのであろうか。
参勤交代制改革問題で、次に大きな会議が開かれたことが確認できるのは閏8月7日である。この時には春嶽のサボタージュも終わり、毎日登城していた。「続再夢記事」は「七日例刻登営せらる。今日御黒書院に於て大議あり。大樹公臨席、後見・総裁職、閣老、三奉行、外にも林家も列席す。諸侯参観の制を廃するのを可否を議せられしなり」と記録する。将軍が臨席し、慶喜も春嶽も、老中も三奉行も、皆出席しているのである。
改革方針が内定したのは9日であった。会議の構成について積極的な記録はないが、恐らく7日と同様であろう。そうして9日「上意案演説案」を阿部・浅野両大目付が起草することとなった。三家以下諸侯に改革方針が論示されたのは15日である。
 慶喜のサボタージュ
その15日から慶喜のサボタージュが始まっている。慶喜は、改革の一環である大名から幕府への進献の廃止に対して老中が異を唱えたことに腹を立てた。大名が幕府に進献する場合には、老中や若年寄にも贈り物をするのが慣例で、進献廃止となれば老中の収入に響いてくる。そのための反対だと慶喜は解釈し、老中のさもしい心根が嫌になったのである。
慶喜のサボタージュは9日間に及んだ。老中たちは大いに慌て、進献も当初案通りに全廃となった。22日、参勤交代制改革を含む一連の改革が正式に発令された。慶喜の意志は通ったのである。
だが問題は残る。22日の正式発令は、慶喜が登営を拒否している時になされたのである。むろん、骨子大綱はすでに確定していたのだが、詰めの段階で慶喜が怒って登営を拒否するほどの修正意見が出たくらいだから、発令直前の最終案決定にはきちんとした手続きを必要としたに違いなく、そうして、その最終手続きとは、慶喜後見職不在の営中においてとられたこと、これまた間違いない。

 慶喜を苦しめる後見職の座
上記の最終手続きは、抗議のサボタージュを続けている後見職の意に沿う方向で行われたので、政治的には問題はない。しかし、純然たる手続きの上の問題としてはどうであろう。もし、将軍がもっと幼くて、西も東も分からないという状況のときであれば、後見職が登営を拒否している最中に何事かを正式に発令するという事は絶対にありえない。将軍が17歳で、これはサボタージュをしている後見職の意に叶う方向での最終決定だということを判断するだけの力があるから、後見職抜きの決定が可能となるのである。そしてもしそうであれば、慶喜が強くムキになって否定するのは筋が通らない。この段階で後見職が出てこなければ、老中なり政事総裁職なりが将軍の親裁を仰ぐという事は、十分にあり得る。
だが、それで手続きが完璧かといえば、そんなことはない。後見職が都営を拒否すれば、将軍レベルの決裁はすべてストップというのが本当であろう。そうしてまた実際に、慶喜後見職が欠席している間に慶喜の意に反する決定を行う事は、不可能だったに違いない。しかし、意に沿う決定だから不在中でもできたという事実は、慶喜にとって当然なのか不当なのかは、判定が難しい。17歳の将軍には、将軍機能を完全に代行するような後見職は必ずしも必要ではない。それなのに、別の政治的理由から後見職が再置されたという事情が、「後見職」というポストの権能解釈を動揺させているのである。この動揺は、次第に慶喜を苦しめる方向へと振幅を強めていく。




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