徳川慶喜の人物像 ~父斉昭の影響~ |
このような遺伝子の問題は、医学的にも難しい問題らしい。それが人間の性格を決定づける要因なのだろうか。それにも増して重要な事は、幼少時における環境ではないだろうか。どちらが重要なのかどうかは判断は容易ではない。しかし、慶喜の幼少時の養育が、後年の慶喜の形勢に多大な影響を受けていると思われる側面が多いのである。
斉昭が時勢の動きに敏感であったことは確かである。それは支配層が本能的に身を守るということから生まれたものといえるが、他の諸大名と比べて、内治・外交問題に対する彼の反応には誠に鋭い物があった。だからこそ天保改革を推進したのであるが、彼のブレーンである藤田東湖らが良く協力した。 そのような情勢の中で、水戸学的精神主義が強調され、そこから尊王攘夷論が高唱された。もっともそれはあくまで現体制・秩序維持の論であるが、それが次第に幕藩体制をより動揺させるとは、斉昭にしても気づかぬことであっただろう。斉昭には多くの著述があり、また彼が諸方面へ発した手紙は、数千通という量である。そのエネルギーのすさまじさに圧倒される。
もう一つ忘れてはならないことは、斉昭には男子22人、女子15人の計37人の子があったことだ。さすがに11代将軍家斉には及ばないが、正室・側室にこの数の子供が生まれ、そのうち男12人、女6人が成長している。慶喜は多くの兄弟を持ったことになるが、男の兄弟が諸藩大名家の養子となったことは、その後の慶喜の生涯に微妙な影響を与えたものであった。質素倹約を唱えた当の藩主が、37人という子供を作ったとは信じられないような話であるが、他人の厳しく自分に甘い人であったのだろうか。実際に倹約生活も行ったようではあるが、子供はそれと関係なしに生まれたのであろうか。斉昭という人物は、簡単には利しきれない面が多い。 |