徳川慶喜の人物像
 ~父斉昭の影響~
 

 烈公斉昭
徳川慶喜は天保8年(1837)9月江戸の水戸藩邸に生まれた。将軍家斉がその職を嫡男家慶に譲ったのと同年である。父は水戸藩主徳川斉昭、母は有栖川宮吉子女王であった。斉昭は幕末期の大名としては注目すべき人物であった。その死後、烈公と諡されたほどであるから、烈しい気性の持ち主であった。このような父の気性が、どれほど慶喜に受け継がれたかははっきりしないが、昨今の医学的研究では父母のうち、母の子供に与える影響力の方が、父のそれより圧倒的に強いようである。となると、生まれた慶喜の素質は、母譲りのものが多大なわけであるが、その吉子女王の性格についてはあまり詳しく分かっていない。恐らく温和な人物であっただろう。もちろん、父の影響がまったくなかったわけではなく、両親の血を引いて一面では烈しさも生まれるが、穏和な気性がその血の中に流れていたと考えるべきなのだろうか。
このような遺伝子の問題は、医学的にも難しい問題らしい。それが人間の性格を決定づける要因なのだろうか。それにも増して重要な事は、幼少時における環境ではないだろうか。どちらが重要なのかどうかは判断は容易ではない。しかし、慶喜の幼少時の養育が、後年の慶喜の形勢に多大な影響を受けていると思われる側面が多いのである。
 幕末の激しい世相
慶喜は、父斉昭の七男であって、七郎麿と名付けられた。慶喜の生まれた頃、水戸藩では斉昭を中心に天保の藩政改革が進行していた。それは幕府の転封改革の先駆的なものであって、封建支配の動揺・衰退を立て直そうとするものであった。文武奨励・質素倹約をはじめとして、様々な政策が打ち出された。その中で注目すべきものに、廃寺が計画され、海防強化が唱えられ、実行に移されたことがある。全体としてかなり精神的な面の強調が見られ、また国際・国内情勢に対処しようとするという面から生まれたものである。
斉昭が時勢の動きに敏感であったことは確かである。それは支配層が本能的に身を守るということから生まれたものといえるが、他の諸大名と比べて、内治・外交問題に対する彼の反応には誠に鋭い物があった。だからこそ天保改革を推進したのであるが、彼のブレーンである藤田東湖らが良く協力した。
そのような情勢の中で、水戸学的精神主義が強調され、そこから尊王攘夷論が高唱された。もっともそれはあくまで現体制・秩序維持の論であるが、それが次第に幕藩体制をより動揺させるとは、斉昭にしても気づかぬことであっただろう。斉昭には多くの著述があり、また彼が諸方面へ発した手紙は、数千通という量である。そのエネルギーのすさまじさに圧倒される。
 エネルギッシュな父斉昭
斉昭が藩政改革を推進する間、これを阻止しようとする反対派の運動も展開された。その際、彼は腹心達に贈る手紙が反対派に渡る危険があると考え、暗号文で手紙を書いている。これは日本最初のまとまった暗号ともいえるが、彼の用心深さを知る上での手掛かりである。尊王攘夷論者の総帥ともみられる斉昭は、一種の偏執狂的な性格も見られ、ともかく当時の大名中異色の存在であったことは確かである。
もう一つ忘れてはならないことは、斉昭には男子22人、女子15人の計37人の子があったことだ。さすがに11代将軍家斉には及ばないが、正室・側室にこの数の子供が生まれ、そのうち男12人、女6人が成長している。慶喜は多くの兄弟を持ったことになるが、男の兄弟が諸藩大名家の養子となったことは、その後の慶喜の生涯に微妙な影響を与えたものであった。質素倹約を唱えた当の藩主が、37人という子供を作ったとは信じられないような話であるが、他人の厳しく自分に甘い人であったのだろうか。実際に倹約生活も行ったようではあるが、子供はそれと関係なしに生まれたのであろうか。斉昭という人物は、簡単には利しきれない面が多い。




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