徳川慶喜の人物像 ~将軍継嗣問題~ |
天保11年(1840)1月、父の斉昭は幕府の許しを得て、水戸へ帰っている。水戸藩の藩政改革を推進するためである。このため慶喜は、父の監督下で生活を送るようになり、さらに斉昭は幕府の命令によって約4年余り水戸に滞在した。そこでの教育はかなり厳しいものであったようだ。質素倹約の生活、文武の修業の基礎訓練がなされた。このような幼少時代の教育や父との接触が、その後の慶喜の成長にどれほどの影響を与えたのか。後年の尊攘思想などが培われたとはさすがに思われないが、「三つ子の魂」は人間形成に重大なものであり、慶喜が約10年間を水戸で生活した事は、江戸で生活するよりは、よりまともな人間として成長する要素であったといえよう。なおこの間、父斉昭は幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、江戸にいた長男慶篤が藩主となっている。 少年時代の慶喜は、極めて聡明であったと言われている。斉昭の多くいた子供たちの中で、斉彬の腹心藤田東湖は、慶喜を次のように評している。 「五郎(鳥取藩主池田慶徳)・七郎(慶喜)はもやは御読書も致され候間、御気質もあらまし御分り遊ばされ候処、五郎君は堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向きと申す風・・・・、七郎君は天晴名将にならせらるべく、さりながら悪しく御出来遊ばされ候へば御手に余りなさるべく、いづれ御たのもしく思召され・・・」 大名以下の次男以下は、他の大名の養子になるのが普通であり、子沢山の斉昭は養子先を見つけるのに苦労した事と思う。その斉昭は、慶喜が天晴な名将になることを期待しているので、兄弟の中では優れた性格の持ちぬしであった事であろう。顔だちもよく、父の激しい気性も受け継いだまず利発な子供であったといえよう。
こうして慶喜は御三卿の一つ、一橋家の家主に迎えられた。弘化4年(1847)11歳の時のことである。父斉昭も、慶喜があるいは将軍ともなる可能性があり、この事に満足していたようである。 一橋家領は10万石、その家主となった事は慶喜の希望でもなければ、意志でもなかった。すべて将軍や、その側近、父の斉昭らの計らいであり、大人の都合であった。このことは、幕末の複雑な政局のもとに行われたものであった。 慶喜が一橋家主になった弘化4年頃、イギリス・フランス艦船がしきりに琉球に来航し、対外関係は次第に緊迫していった。しかし嘉永6年(1853)に至るまではまだそれほどの大事件は起きていなかった。将軍家慶もしばしば一橋邸に赴いたりしている。その家慶は、嘉永6年のペリー来航後に死亡した。ペリーは明年には再び来航するであろうことを予告している。いよいよ対外問題が切迫し始めたのだ。 ペリーの来航に際し、幕府は諸大名や幕臣らにこれに対する対策を諮問した。慶喜も意見書を提出したが、家臣の起草した堂々とした案に対し、これは17歳の人間としては出来過ぎであるとして、簡単な平凡なものに改めている。 家慶の跡を継いで将軍となった家定は、この時30歳となっていたが子供がいなかった。こうなると早く将軍後継者を決めなければとの論が生まれてくるのは当然であった。嘉永6年頃からすでにこの話は出ているが、その候補者として当然慶喜の名が取り沙汰されていて、慶喜の耳にも伝わっていた。慶喜は父斉昭らに対して、「自分は一橋家中の世話さえもなかなか行き届かないのに、天下取り(将軍)になるなどとは、天下滅亡の基となる。」という趣旨の手紙を送っている。何処まで本心かはわからないが、本音であったのでは無かろうか。自分から率先して政局に登場し、難局に当たろうというような気概には欠けていたように思える。だが、慶喜の意思がどうであれ、将軍継嗣問題はにわかに高まっていった。
対外問題を契機に、いわゆる開明派的大名・幕臣らの中には、慶喜を継嗣に推す人が多く、その中心となったのは越前福井藩主松平慶永であった。父の斉昭も、心ひそかにこれを願ったと思われる。一方、将軍継嗣は時勢の如何を問わず、あくまで将軍に近い血統の人を立てるべしとする封建的原則の主張者も少なくなかった。その間、諸大名・幕臣・大奥などの思惑が入り込み、一橋派と南紀派が形成され、政局は紛糾した。慶喜自身は、積極的に将軍継嗣となる事を望んではいなかったようである。全くその気持ちがなかったわけではないだろうが、消極的であったのではないだろうか。 将軍継嗣問題は、日米修好通商条約締結問題と絡み合い、複雑な様相を呈した。殊に条約の勅許を得ようとする幕府の画策も加わり、政局に朝廷が登場する事となり、一層混沌とした状態になった。 この両問題を一気に解決したのは、安政5年に大老となった彦根藩主井伊直弼であった。将軍は家茂(慶福)に決定し、通商条約の調印も行われた。「徳川にかけそこなった一つ橋」という川柳が残っているらしいが、なかなかうまい表現である。慶喜自身はこの決定に不服はなかったかもしれないが、条約締結問題では井伊直弼を追い詰めている。即ち勅許を得るよう努力せよと力説しているが、これは将軍継嗣にならなかったしっぺ返しではないようである。父斉昭から受けた影響による思想から生まれたものであろう。 その後、井伊直弼による反対派の弾圧、安政の大獄が始まった。慶喜もまた、これに連なる形で、安政6年(1859)隠居・謹慎を命ぜられた。慶喜としては、どうしてこのような処分を受けなくてはならないのかわからなかったであろう。しかし、将軍の命令とあれば従わざるを得ず、しばらく血気盛りの意地もあって厳重に謹慎の日々を送っている。 |