徳川慶喜の人物像
 ~将軍となる~
 

 幕府の弱体を晒す
慶応元年(1865)に入って幕府は長州藩再征を計画し、8月には将軍家茂が大坂城に進み、その陣頭指揮をとる事となった。このとき、降ってわいたような難題が起こった。それはイギリス・フランス・アメリカなどの公使が、イギリス軍艦以下の9隻に分乗し、大坂天保山に進出し、幕府に条約勅許・兵庫の早期開港・関税軽減を要求した事である。慶喜はこの問題の解決に大活躍し、結局条約勅許に成功した。条約勅許には、朝廷内に強い反対論があった。慶喜は強硬な態度で、廷臣達を圧迫した。決死の慶喜の意気ごみに吞まれて、遂に条約勅許となったのであった。しかし考えて見るとこれも妙な話であった。条約は、将軍が諸外国と結んだのであり、それをまた勅許を受けるという事は、幕府権力の上に朝廷のある事を認めることであり、幕府自体の弱体を自ら認めることである。ここまで考えて慶喜は行動したのであろうか。それはともかく難題は解決し、慶喜の声望が公卿・諸大名・幕臣らの間に高くなった。慶喜自身も自己の政治行動に自信を持つようになったと思われる。
 家茂の死去
長州藩の処分問題は、結局幕府の命取りとなったともいえるが、慶喜ははじめ強硬に長州藩処分を主張した。しかし老中との意見が合わず、このため追討を好まないともみられた。長州藩は反撃し、戦況は幕府側に不利であった。そのさなか、慶応2年7月、将軍家茂は大坂城中で病死した。家茂に子はなく、継嗣は決まっていなかった。この時に当たって慶喜がその後継者として最適任者であった。諸方面からの慶喜に対する宗家相続―それは将軍職就任に通じるものであるがーの勧めに対して、慶喜は容易にこれを承諾しなかった。
慶喜としては幕府の権力が地に落ちた現在、将軍となる事がいかに苦労であるかは十分承知していたであろう。そこでひとまず徳川宗家の相続を承知した。8月20日将軍家茂の喪が発せられ、慶喜の宗家相続が公布された。しかし将軍不在という事態は、実に妙なものである。政治運営はまともに行われるはずがない。結局諸方面からの懇請によって12月には将軍となるが、慶喜は後年この将軍就任固辞について「自分は王政復古を考えていたからである」などと述べているが、、これは明らかに嘘である。彼に幕府否定の考えなど、全くなかったと言ってよい。
 幕政改革を目論む慶喜
慶喜は、幕府の運営に積極的にかかわった。将軍職を相続するとすぐに、俄然張り切って幕政改革を開始したのだ。その最大の狙いは軍制改革であり、幕府兵制の近代化であった。
それは、フランスとの提携によって着々と進行した。幕府内のいわゆる親仏派と、慶喜との関係も密接になった。これが成功すれば、独力でも幕府は長州藩を制圧し、安泰であっただろう。だがすでに時勢はより急テンポに進んでいた。




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