4・徳川慶喜と小栗上野介 長州征伐の失敗 |
慶喜の将軍就任 |
第十四代将軍徳川家茂が大坂城で急死した後、当然のように後継の将軍職として慶喜に白羽の矢が立てられた。慶喜は徳川本家の相続は承知したが、征夷大将軍職はなかなか受けなかった。 「高く売りつけてやろう」 慶喜にしてみれば、その思いが強かった。これには理由がある。 嘉永年間にペリーがアメリカ大統領の特使として日本にやってきた。この際、フィルモア大統領の国書を時の老中筆頭阿部正弘は、英文の国書を日本語に訳させ、日本中にばらまいている。これは大名のみならず民間からも意見を求めたもので、現在でいえば情報の公開と国民の国政参加を求めたものだ。これが次第に高じて、「次の将軍はどういう資質を具備すべきか」という問題にまで発展してしまった。結果、当時の一部の策動者たちの意見によって「年長・英明・人望」の三条件が必要だということになった。当時血筋から言えば、そのころの将軍徳川家定に最も近いのは、紀州藩主徳川慶福だったからである。慶福はまだ少年で、三条件を満たすのは前水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家に養子に入った慶喜とみなされた。阿部正弘やこれに同調する大名・旗本などは巧みに世論を誘導しながら、慶喜を次期将軍に押し立てようとした。薩摩藩主の島津斉彬などはその先頭に立っていた。 ところが突然阿部が急死し、続いて島津斉彬も死んでしまい、この計画は挫折した。代わって登場したのが彦根藩主の井伊直弼である。井伊は大老となり、慶喜擁立派を徹底的に弾圧した。安政の大獄である。したがって、慶喜にすればその時の遺恨がある。 (そうそう簡単に乗せられてたまるか) という気持ちがあった。したがってそのしこりとわだかまりを氷解させるのには、やはり慶喜の望む条件を幕府側が受け入れる用意がなければダメだ。 |
幕府威信回復のために |
慶喜は、「幕府の威信を回復するためには、徹底的な幕政改革」が必要だと感じた。つまり、幕府の組織・人事・軍政・財政などを徹底的に改革することの全権を握りたいと思っていた。したがってその土台ができなければ腰を上げないという態度を示した。 小栗上野介も最近の政治情勢を見ていて、「幕府の腰が弱すぎる。もっと強化しなければだめだ」と考えていた点で、慶喜の上記の考えにおおむね賛同している。 先の長州征伐が失敗に終わった理由が二つある。一つは、長州軍が武士だけでなく農工商の三民が積極的に参加し、一種の人民軍を構成していたこと。そして、使用する武器が、幕府軍のそれに比べはるかに近代化されていたことである。 その長州軍の武器は、薩摩藩の名において購入したイギリスからの新式兵器が多かったことである。犬猿の仲と言われた長州藩と薩摩藩は、いつの間にか軍事同盟を結んでいた。仲介者は坂本龍馬とされている。 こういう状況を見て小栗はつくづく感じた。それは、幕府のいわゆる直参と言われる武士たちがほとんどものの用に立たないことと、再征軍に参加した大名家が幕府への忠誠心を失っていたこと、そして中央政府としての徳川幕府の統制が各大名にとってどれだけメリットがあるのか、などのことである。 |
武士の世を超える仕組み作り |
「この状態は危険だ。幕府の存亡にかかわる」 小栗はそう懸念した。そして逆に長州藩の強さに学ぶとすれば、「兵士は別に武士に限らない」ということである。そこで小栗は軍制改革を思い立ち、慶応2年(1866)の秋から幕府軍を統一的な常備軍にしようと考えた。それには下記のような条件がある。 一、軍役には兵を供与するという制度をやめる 一、かわりに、藩からは資金を出させ、これによって能力のある兵士を雇用する。 一、つまり、藩には金納させ、その基金によって傭兵制度を作り出す。 ということである。しかしこの構想にも難点はある。それは傭兵が果たして、徳川幕府に対してどれだけの忠誠心を尽くすかということ、そして大名家が気持ちよく金を出すかということであった。 この構想は足元の幕府直参である旗本たちにも適用された。だが、資金の提供は必ずしもスムーズにはいかず、慶応3年(1867)からポツポツと実行されるという程度であった。何といっても求心力になる将軍の存在がものをいうからである。将軍のことを「大樹」という。しかしこのころの幕府にはこの大樹がない。苗さえない。したがって、金を求められる側にすれば、何を目標に、いったい誰のために金を出さなければならないのか、ということが納得できない。いまでいえば説明責任が果たせない。根拠があいまいだからである。小栗は苛ついた。 |