4・徳川慶喜と小栗上野介
幕府威信回復のために 

    慶喜と上野介
徳川慶喜と小栗上野介。討幕派に追い込まれた鳥羽伏見の戦い後の江戸城での二人の対応は結果的には真反対になった。
「恭順する」姿勢を見せた慶喜に対し、「箱根の険を利用しつつ、海軍で脅かせばまだ勝機はあります」と徹底抗戦の姿勢を見せた上野介。最終的には決別した二人であったが、ある時期まではほとんど同じ道を歩いていた。その道というのは、
「フランス国の補助によって徳川幕府の威信を回復する」
ということである。フランス駐日公使のロッシュは、慶喜と上野介のこの案に積極的だった。むしろ、ロッシュのほうからそうしたほうがよいと乗り出してきた気配もある。
    フランスとの関係 
日本の幕末の開国は二段階によって行われた。第一次は「和親」というもので、第二次が「通商」条約の締結である。和親条約を結んだ時の外国諸列強の目標は中国であった。つまり輸出入の市場としては中国のほうがはるかにメリットがあったのである。だからアメリカが最初にホント和親条約を結んだのは、中国への航海の途中、病人が出たり燃料や食糧が足りなくなった時の寄港地として日本を利用しようと考えていたのだ。だが実際に日本の状況を見てみると、結構商売になると踏んだのだ。そこで初代の駐日領事ハリスが強引に談判して、通商条約を結ばせた。これに続いて、イギリス・ロシア・オランダなども同じような条約を締結した。日本の輸出品として目玉商品となったのが生糸と茶だった。そして生糸をほとんど独占的に輸入したいと申し出たのがフランスである。お茶はイギリスだった。フランスは世界でも有数の絹消費国だったが、そのころちょうどフランス国内の蚕が病気にかかって生糸の生産が激減していた。当然絹も生糸も生産国としては中国が有名だったが、フランスが比較してみたところ、中国の生糸が色が黄色で練り方が粗いのに比較し、日本の生糸は非常に色が白く練り方が洗練されている。フランス人は、「中国産の生糸よりも日本産のほうが優秀だ」と判断したのだ。したがってフランスとしてみれば、「日本の生糸を独占して買い占めたい」と思ったのは当然だ。
    威信回復のために
上記のようなフランス国の意図を見抜いて、日本国の政略日刊として利用しようと考えたのが小栗上野介である。上野介は外交事務についてもかなり優れていた。アメリカと結んだ通商条約の批准のために、正使がワシントンに赴いたとき、小栗は目付として同行している。このとき彼は日本の貨幣を持っていた。アメリカ側に次のように言い出したという。
「本来貨幣の交換率というのは、貨幣が含有している金・銀・銅などの鉱物の量によるのではないか」
このあと、持っていた秤にアメリカの1ドル金貨と日本の小判とを乗せてその含有量を比較した。アメリカ側は驚いて、今回はそんなことは話題になっていないと拒否したが、心中は「日本にも鋭い官僚がいる」とひやひやしたという。そういう国際感覚を持っている小栗のことである。フランス側の意図などすぐ見抜いた。小栗は、
「フランスの、日本の生糸に対する欲求を満たすことを条件に、幕政改革に必要な資金を出させよう」
と考えた。当時の小栗は勘定奉行である。いまでいう財務大臣である。徳川幕府の財政運営を一手に引き受けている。当然このことは徳川慶喜将軍にも通達された。慶喜はフランス公使ロッシュと仲が良い。ナポレオン3世から贈られた服を着て、嬉々としているようなところさえあった。当然この上野介の意見はすぐ受け入れられた。したがって、大所の戦略は慶喜とロッシュが固めて、具体的に実行する戦術面は上野介が担当した。
当時の幕府は、長州再征に失敗して大いに威信を落としていた。そのため、主として西国雄藩が、次第に幕府から離れ始めた。場合によっては連合を組みかねない。幕府の存立そのものが次第に危うくなっていったのだ。





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