義元の家督継承まで
 ~禅寺修業~
 


 今川家の「官寺」善得寺
善得寺の歴史は古く、鎌倉末期の高僧無学祖元の弟子である高峰顕日の開いた下野の雲厳寺に学んだ大勲天策禅師が、貞治2年(1363)に現在の富士市今泉の浮島沼のほとろに天寧寺を開いたのがはじめという。大勲天策禅師は関東管領上杉憲顕とその子能憲の帰依を受け、応安5年(1372)から寺の名を善得寺と改めたが、上杉禅秀の乱のあと、上杉氏との関係が切れ、今川氏の「官寺」になったといういきさつがある。以来、今川氏歴代当主からの厚い保護によって「河東第一の伽藍」とまで言われるほどに発展していた。歴代住持は、第一世大勲天策、第二世竺帆、第三世景徳仲、第四世永派西堂と続き、氏親のとき、京都の相国寺から照黙堂を招いて第五世とし、そのあとをつ継いだのが第六世琴渓承舜であった。そしてその門弟に九英承菊、すなわち雪斎がいたのである。
方菊丸(義元)は雪斎から文字を習い、やがて「四書五経」等も読むようになっていったものと思われる。当時の寺は、武士の子弟たちの学校の役割も果たしていたのである。氏親としても、一面では家督争いをなくすための目的と、もう撃一面では子供に学問を付けさせる狙いもあった。
雪斎に義元の養育を託した氏親が大永6年(1526)に没し、その葬儀の席に「善得寺御曹司」と書かれた8歳の義元の姿があった。葬儀が終わって再び善得寺へ戻り、もとの生活に戻って数年が経過した。

 建仁寺へ
義元の身に変化が起こったのは、享禄3年(1530)のことである。義元は12歳になっていた。雪斎が以前、建仁寺で修行していた頃の師である常庵龍崇が駿府に下向してきたのである。そのころ、駿府にいた龍崇の兄素純法師が亡くなり、駿府で葬儀が営まれることになったからである。雪斎は方菊丸を得度させるいい機会だと考え、方菊丸を伴って駿府に赴いた。そして、その希望通り、龍崇の手によって得度の式が行われている。承芳と号することになった。
そしてこの得度が一つの契機になった。雪斎は承芳に本当の禅修業をさせたいと考えるようになった。享禄5年頃(1532)には上洛し、建仁寺に入っているのである。
建仁寺では、常庵龍崇のいる護国院に入ったものと思われる。そこで承芳は「梅岳」という道号を与えられた。梅岳承芳の名の誕生である。
梅岳承芳は、若いながらも漢詩文に能力を発揮し、造った漢詩が評判になるようなこともあった。また、氏親の子と言う血統の良さが京都の公家達にも受け、三条西実隆・近衛種家らとの交流も生まれていた。
こうした状況は、雪斎が意図していた方向とは違っていた。建仁寺は当時、五山文学のメッカであり、雪斎にしてみれば禅は禅でも文学禅とでもいうべきもので、本来の姿から逸脱していると考え始めたのである。梅岳承芳が公家との交流によって、禅の修行が疎かになることを心配するようになり、思い切った行動をとっている。建仁寺を飛び出し、妙心寺の大休宗休の門をたたいているのである。
 妙心寺へ
雪斎がいつ梅岳承芳を伴って建仁寺から妙心寺に移ったのかは明らかではない。弟子として正式に認められる印可を大休宗休から天文4年(1545)以前に受けているので、それ以前である事は言うまでもない。
なお一般的には、大休宗休を慕って妙心寺に入った直後、名をそれまでの九英承菊から大原崇孚に変えたと言われている。しかし、大原なり崇孚の名が確かな史料の上に見えるようになるのはかなり後、天文10年代に入ってからなので、改名そのものは遅いのではないか。それは弟弟子と言ってもよい梅岳承芳が、妙心寺に移って以後もそのまま承芳を使っていることから類推されるもので、雪斎も九英承菊の名はしばらく使っていたものと思われる。
ただし、雪斎の名は天文10年(1541)からみえる。




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