義元の家督継承まで ~禅寺修業~ |
方菊丸(義元)は雪斎から文字を習い、やがて「四書五経」等も読むようになっていったものと思われる。当時の寺は、武士の子弟たちの学校の役割も果たしていたのである。氏親としても、一面では家督争いをなくすための目的と、もう撃一面では子供に学問を付けさせる狙いもあった。 雪斎に義元の養育を託した氏親が大永6年(1526)に没し、その葬儀の席に「善得寺御曹司」と書かれた8歳の義元の姿があった。葬儀が終わって再び善得寺へ戻り、もとの生活に戻って数年が経過した。
そしてこの得度が一つの契機になった。雪斎は承芳に本当の禅修業をさせたいと考えるようになった。享禄5年頃(1532)には上洛し、建仁寺に入っているのである。 建仁寺では、常庵龍崇のいる護国院に入ったものと思われる。そこで承芳は「梅岳」という道号を与えられた。梅岳承芳の名の誕生である。 梅岳承芳は、若いながらも漢詩文に能力を発揮し、造った漢詩が評判になるようなこともあった。また、氏親の子と言う血統の良さが京都の公家達にも受け、三条西実隆・近衛種家らとの交流も生まれていた。 こうした状況は、雪斎が意図していた方向とは違っていた。建仁寺は当時、五山文学のメッカであり、雪斎にしてみれば禅は禅でも文学禅とでもいうべきもので、本来の姿から逸脱していると考え始めたのである。梅岳承芳が公家との交流によって、禅の修行が疎かになることを心配するようになり、思い切った行動をとっている。建仁寺を飛び出し、妙心寺の大休宗休の門をたたいているのである。
なお一般的には、大休宗休を慕って妙心寺に入った直後、名をそれまでの九英承菊から大原崇孚に変えたと言われている。しかし、大原なり崇孚の名が確かな史料の上に見えるようになるのはかなり後、天文10年代に入ってからなので、改名そのものは遅いのではないか。それは弟弟子と言ってもよい梅岳承芳が、妙心寺に移って以後もそのまま承芳を使っていることから類推されるもので、雪斎も九英承菊の名はしばらく使っていたものと思われる。 ただし、雪斎の名は天文10年(1541)からみえる。 |