エーショー人物評 (1519~1560) |
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永正16年(1519)駿府に生まれる。庶子であった為、駿府郊外の善得寺に入れられ梅岳承芳と呼ばれていたが、今川氏の当主であった兄氏輝が24歳で急死し、今川の家督を腹違いの兄弟たちと争うことになった。家督継承争いに勝った義元は、本領である駿河から遠江の支配、さらに甲斐の武田氏、関東管領山内上杉氏と結んで北条氏綱を伊豆の国境まで後退させ、駿東、富士の二郡を支配下におさめた。更に三河の松平氏も従属させ、義元は駿河・遠江・三河のおよそ100万石を治める大大名となり、「東海道一の弓取りと呼ばれる。 天文22年(1553)には父氏親が制定した「今川かな目録」に二十一カ条を付け加えた「仮名目録追加」を制定するなど、内政にもその手腕を発揮。その間、甲斐武田信玄・相模北条氏康と三国同盟を義元の主導で結ぶなど、外交手腕も優れていた。 永禄3年(1560)2万5千の大軍で、尾張の織田信長を攻めたが、尾張桶狭間において織田信長の予期せぬ急襲にあい、あえなく戦死。享年42歳であった。 |
天下人三英傑の引き立て役に甘んじてしまう |
今川義元という人は、実に不憫な人である。いわゆる「敗北者」的な扱いをされてしまい、不当な評価しか受けていない気がする。 そもそも「敗者」ってどういう位置づけなのだろうか。考えてみれば、義元を屠った織田信長だって、ある意味「敗者」だ。部下の明智光秀に突然襲われて命を落としているのだから、ある意味義元以上に情けない死にざまともいえる。しかし、世間一般の評価はそうではない。天下を取り、日本の行く末を大きく変えた「改革者」であり「英雄」なのである。確かに、信長が日本の中枢を手中にしていた時期はそうであったかもしれないが、部下に殺された事実について厳しい評価がさほどされず、ひたすら英雄化ばかりがされているところは、未だに義元の死が実に情けない扱いにされてしまっている点に比べると、いささか不当に感じる。 信長に踏み台にされ、そしてその信長の部下であった秀吉にすら、「太閤記」などには「保守的で気位が高い今川家に相手にされず、新進気鋭の織田家に仕えた」的な記述もあり(虚構であろうが)、義元を低く見積もっている点が少なくない。徳川家康に至っては、もはや人質にされ、今川家にいて苛められた的な扱いであり、その今川を見限り、やがて天下人となったと言わんばかりの書き方が、今だもってなされている。(それでもだいぶましになってきたとは思うが) 天下人三英傑だけではなく、今川氏の諸国の名優的大名と比べても、不当にその扱いは低い。甲斐の武田信玄、相模の北条氏康あたりがいわゆる名将であり名君であると称えられているのに比べても、義元は一段低く扱われている。 そもそも、今川家が足利幕府創建以来の名門であり、その名門である事を鼻にかけて、苦労知らずの公家気取りの軟弱大名というところが、従来の義元評であったようだ。だが、当然ながら実像は違う。そもそも、今川家がそんな苦労知らずの名門であり続けたわけではない。むしろ、戦国期の荒波を代々の当主が苦労して切り抜け、いわゆる守護大名から屈指の戦国大名に切り替えることに成功しているのだ。そうでなければ、天文~永禄年間に今川家が東海随一(事実上100万石程度)の大大名であり続ける筈がないではないか。 |
激動戦国時代を乗り切った今川家 |
今川家は確かに名門ではあっただろう。だが、戦国時代に突入する頃になると、家督争いや、周囲の国との争いが絶えず続いた。実力の無い守護大名であれば、本当に力をもった守護代や国衆などに淘汰され、滅んでしまうケースも珍しくはない。室町守護大名の名門であった細川氏や山名氏、土岐氏などは、いわゆる下克上の波に飲み込まれ、いわゆる傀儡化されてしまうか、あるいは乗っ取られて追放の憂き目にすらあった。その中で今川氏は、見事に戦国の荒波を乗り越え、戦国大名かに成功した典型的な例である。(甲斐武田氏も同様だが) 今川氏親の代にはほぼ戦国大名かが成功している。ここで注目すべきはその妻寿恵尼であろう。彼女こそはこののち、今川家が屈指の戦国大名であり続けた真の立役者である。氏親の死後、今川家は家督を氏輝が継ぐ。氏輝は義元の兄である。この兄弟の母こそが寿恵尼である。氏輝の代は短く、24歳でこの世を去る。氏輝の能力はそれ相応のものだったようだが、虚弱体質で神経が細かった人物だったらしい。 この氏輝の死後、今川家は動揺し、大いに荒れる。 義元は異母兄弟と家督を巡て争う羽目になる。この争いに義元は勝った。だが、単に勝っただけではない。むしろすごいのはこれからだ。何せ家督争いで家中が分裂しかねない状態だったのにである。今川家がその後分裂したどころか、見事にまとまり、むしろそれまで以上の繁栄を遂げていくのだ。 義元は、生まれついての大名なんかではない。むしろ、庶子であった。その庶子が、血で血を争う家督争いを勝ち抜いていったのだ。並々ならぬ労苦を重ねたであろうし、並の胆力では務まらない。むしろ、骨太な人物であったのではなかろうか。 母寿恵尼、さらには義元の師でもあった太原雪斎の薫陶もあったであろう。だが、何より義元の苦闘から育まれた強靭な胆力こそが、今川家が屈指の戦国大名として君臨していった原動力であっただろう。 |
戦国に生き、戦国に散った名優 |
上記の事などを考え合せると、義元こそが最も「戦国」に相応しい人物だったといえるかもしれない。何せ、身内ですら信じられぬ争いを勝ち抜き、戦国大名として近隣を制覇し、最後は戦国武将らしく戦場に散ったのだから・・・。 義元の手腕は、駿河国の東側を北条家から奪い統一し、遠江を制圧し、三河の松平氏を従属させた軍略、「仮名目録追加」などで発揮された内政手腕、さらには甲斐武田信玄・相模北条氏康と「義元の主導」で三国同盟を結んだ外交手腕で大いに発揮されている。 並み居る戦国の名将にも負けないどころか、むしろ凌駕するほどの胆力と手腕、もちろん教養もあり、「海道一の弓取り」の名に相応しい武将であったと思う。 尾張の織田信長を攻略する際の軍事行動は、上洛説が最近はほぼ否定されている。私もいわゆる桶狭間の戦いに至る行軍は、尾張とその周辺の制圧を目論んだものであったと思う。それも、信長を屈服、あるいは滅亡に追い込めばもちろん本望であっただろう。が、行軍中に少しでも怪しくなれば、無理せず優位な状態だけは保とうとした、そんな目的だったように思う。 このあたりの義元の軍事行動は、ある意味典型的な従来通りの戦国大名の戦略パターンだったと思う。義元は織田攻略に際しては念入に戦略を練り、尾張国境沿いの国衆たちを篭絡し続けている。実力で凌駕する今川家に従属しようとするのはある意味当然で、義元は戦略の王道を突き進んだのであろう。 だが、まさか信長が俄然攻撃を仕掛けてくるとは思わなかったであろう。圧倒的不利な状態で敵が攻め込んでくるとは、名将義元も思いもよらなかったに違いない。とはいえ、義元に隙があったというわけではない。周囲への警戒は常に怠らなかったはずだ。 信長とて、義元の首をとれるとは思わなかったであろう。だが、今川軍が比較的行軍が容易ではない桶狭間に差し掛かり、なおかつ雨で行軍が滞っている時に、一撃を加えれば、少なくとも戦局不利が挽回でき、今川軍を撤退に追い込むことも不可能ではない、そう思っての軍事行動だったと思う。 それでも相手が不利な状況でまさかの攻撃、義元の常識では推し量れなかったのだろう。だが、討たれるにしても、義元の最後は壮絶だったようだ。凄まじい斬りあい、義元に一番槍を突きつけた服部小平太の膝を切り落とし、毛利新助に槍を突き刺されたのちも、新介の指を噛み切り、武将らしく堂々と戦いを演じて散ったのだ。 今川家がその後約9年間も命脈を保ち得たのは、義元の威光が死してなお残っていたからに違いない。それにしても義元の死は、その後の戦国史に大きな影響を与えたことだけは間違いない。 |