天文22年6月、義景は神兵衛尉・小河宗兵衛尉・中村藤左衛門を派遣して国内の神社の鳥居大破の状況と道橋の様子を巡見させた。街道の整備は領国支配の基本であり、神社の鳥居は、こうした街道に面しているから領国の体面を保つものと言える。初代朝倉孝景は、その家訓「朝倉英林壁書」に「器用正路たる輩に申し付け、年中三か度ばかり領分を巡行させ、土民百姓の唱えを聞き、その沙汰を改めらるべし」と領国巡行を命じているが、ここに言われる民の声を聴くという意味も、今回の巡見使派遣にあったのかもしれない。また同じ年に越後の長尾景虎が上洛しているので、その一行が越前を通ったことは確実であり、あるいは、このために街道沿いの体裁を整える必要があったのかもしれない。
次に永禄6年10月にも義景は斎藤景将・石黒吉富・藤田吉運の三奉行を遣わして堂社の破損の修理ならびに街道の普請を南仲条郡の今泉浦に命じている。今泉は府中と敦賀湾を結ぶ西街道の西端に位置する港である。おそらく今回の巡見使も、一国に派遣されたのであろう。詳しい規定があり、道幅一間半うち道一間とし、その間竿を実際に下している。また道の両脇の田畠の土を路面にあげてはならないとしている。
永禄11年には「北庄橋」の修理がなされ、越前一国の神社の森の古木が、これに充てられたが、水落神明の木は前例により除かれ、かつ神明の拝殿大破の修理に充てるべしとして特に免除されている。この北庄橋は九十九橋のことで、北庄の南、北陸道(北国街道)が足羽川を渡る地点に架かっていた。当時、普通「北庄大橋」といわれ、延徳3年(1491)管領細川政元や冷泉為広一行が通ったときには、「百八間の橋あり」と記録されている巨大な橋である。この橋一つをとっても越前の国力と領国の繁栄が窺える。
以上のように朝倉義景は神社鳥居、堂社破損の巡検、道普請などに力を入れ、たびたび巡検使を派遣して国内の実情を詳しく調べさせ、修復を加えさせたのである。 |