朝倉義景の治政
 ~知行と領土の安堵~
 


 家臣への知行宛行
朝倉氏の家臣や越前の国人に関する聞書は非常に少ないが、朝倉義景の家臣に対する知行宛行の文書が三例ほど知られる。まず当主になった翌年の天文18年(1549)12月19日に鳥居与市左衛門尉に吉田郡の志比庄内渡辺八郎左衛門父子跡所々沽却散在地を宛がっている。鳥居氏は朝倉氏の直臣で、朝倉氏滅亡後、加賀藩士となり、苗字を「嶺」に改め、明治元年(1868)鳥居に復姓した。志比庄は一乗谷の北約10キロメートルに位置する大荘園で、鎌倉時代、地頭の波多野義重は道元を招き、ここに永平寺を創建した。朝倉氏の古い直臣の笠松氏や渡辺氏などが志比庄の内部に所職を得ていた。この知行宛行は没収された渡辺八郎左衛門父子の跡職を鳥居与一左衛門に宛行い、給人としての土地所有を認めたものである。
二つ目は南仲条郡の池上保に拠った朝倉氏の直臣三輪氏に宛てたもので、天文19年12月8日、三輪弥七に戸田弥六が手放した池上保内の2名畠山林・抜地の知行を安堵している。この所領は平葺崇禅寺領で、富田の祖父が獲得したが、本役年々無沙汰による上表して三輪弥七に譲り渡したものである。これを安堵して三輪に宛がった。
三つ目も鳥居氏の事例で、弘治3年(1557)10月5日、鳥居与一左衛門尉に足羽南郡の六条保の良専・良妙・同子助俊・与五郎の跡職を宛がった。六条保は一乗谷の西方約6キロメートルの所にある所領である。
義景の知行宛行が、それまでの朝倉氏歴代と同様に他の家臣の跡職を宛がう形のものであったことは確認できる。朝倉氏は初代朝倉孝景の時から、新恩の知行宛行は没収の跡職であった。しかし鳥居氏の場合を見ると、こうした知行宛行が義景の治政のかなり早い段階から度々行われていたことがわかり、義景主導による知行制が確立していたことが伺える。
 寺社領安堵
朝倉氏は越前国の支配者として初代孝景以来、越前の大寺社に対して寺社領の安堵を行ってきた。義景の代では、現存する文書では天文19年5月8日、丹生北郡の織田寺寺社中に対して劔大明神寺社領を安堵したのがその初見である。その文言は先代の四代孝景のものを踏襲し、初代孝景・氏景・貞景・四代孝景の代々安堵状に任せて安堵すると言っている。朝倉氏代々の安堵は初代孝景の安堵の先例がある場合は、それを確認するものとなっており、また義景の代は全て直状形式となった。
義景はこれに引き続き、織田寺玉蔵坊、大野郡の洞雲寺、坂南郡の竜興寺、坂北郡の龍沢寺、大染院、吉田郡の昌蔵寺、南仲条郡の少林寺、大野郡の賢聖院、坂北郡の滝谷寺等、敦賀郡を除く越前各地の大寺社の安堵を行っている。こうした義景の寺社領の安堵は、天文・弘治・永禄年間の時期に広く分散して行われており、代替後一斉に安堵を行うのではなく、個々の寺社の要求に応じて個別に各寺社の安堵を行っている点に特色がある。
 寺社領の保護に努めた義景
義景はまた、寺社領の保護に努めた。織田劔大明神領の山本庄内久恒名の沽却散在地の名代職を持っていた朝倉氏の家臣雨夜新左衛門尉景忠は、その年貢諸済物を織田寺社に納入せず、数年無沙汰を続けた。義景は弘治2年、織田寺社の訴えを受けて雨夜が所職を上表したとして織田寺社に対して所領の沙汰を命じた。ところが雨夜は、その所職の一部を禅佐という人物に売却していた。義景は雨夜にその弁明を命じたが、雨夜は返答しなかったため、義景はその地を没収して、改めて禅佐に預けるという手続きで織田寺社の訴訟に応えている。
また、洞雲寺の場合は、安堵の後、朝倉氏の家臣中村平左衛門尉が洞雲寺領の「両屋敷御構」の領有を主張したが、義景は永禄元年にこれを退けて洞雲寺に領有させている。
また、龍沢寺の場合は、寺領の一部に設定された伊勢帯刀左衛門尉と溝江左馬介の名代職を改易して寺領安堵を行っている。伊勢氏も朝倉氏の家臣で、坂北郡の清長村に館を構え、龍沢寺領のあった吉田郡や坂北郡に勢力を張った。溝江氏は朝倉氏の庶流の一族で、同じく坂北郡の金津に地盤があった。恐らく彼らも朝倉氏の一族や有力家臣として寺社領に対して横領や年貢無沙汰を重ねる傾向があったのであろう。義景はこれらに対して「改易」という強い態度で臨んだ。また三国湊に近い滝谷寺に対しては、寺領田畠を夜に盗み刈り取ることを禁止させたり、逐電した門前百姓を誅伐させて、その跡の家を滝谷寺に進退させるなど寺社の存立に尽力している。
以上のように義景は、越前の有力寺社に対して保護を行い、寺社領を安堵した。寺社領を侵食しているのは、多くの場合朝倉氏の給人であり、義景は寺社の要求によって彼らの所領を没収した。なお、敦賀郡については、敦賀郡司が寺社領の安堵を行っており、当主からやや独立していた観があった。




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