義元の家督継承まで
 ~義元の生い立ち~
 


 氏親の五男
今川義元は、永正16年(1519)の生まれという。父は今川氏親、母は寿桂尼である。これは、「寛永諸家系図伝」や「続群書類従」所収の今川系図等の義元の項に、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで討ち死にしたときの年齢を42歳としていることからの逆算である。(永正13年生まれという説もある)
義元は氏親の五男であった。幼名は方菊丸。兄に氏輝がおり、今川氏の家督を継ぐ身分であった。
方菊丸が4歳になった大永2年(1522)もしくは5歳になった翌年、氏親は方菊丸を富士郡の善徳寺に入れている。そして、方菊丸の養育を託されたのが九英承菊、すなわち後の太原崇孚、つまり雪斎であった。そのときのいきさつが雪斎三十三回忌のときの「護国禅師遠�諱香語写」に述べられている。
「芳髣年を補佐すべき其の仁なし。故に氏親公、使を遣わして呼称すること三回なり。生縁の熟する処、忘れ難くして帰国し○んぬ。氏親公芳髣年の進止を以て畢竟菊公に犄頼す。国守の命は既に九鼎にして法シャの好みもまた千×なり。峻拒するを得ずとして世と低昂す」
修業中の九英承菊を見込んだ氏親が方菊丸の養育係を依頼したときの様子がわかる。このとき九英承菊こと雪斎は京都の建仁寺で修業しており、二度まで断ったという。このあたりは「護国禅師・・」の創作だった可能性がある。「三顧の礼」の話との類似性が指摘される。

 雪斎が断れない理由
いずれにせよ、氏親からの説得がなされたことは事実である。結局雪斎は、氏親の頼みを断り切れなかった。「国守の命」を「峻拒するを得ず」と記されているあたりに、そのことは明らかである。
氏親が雪斎に白羽の矢を立てたのも、雪斎がそれを断り切れなかったのも、雪斎が今川氏重臣の子供だったからである。「護国禅師・・・」には、父庵原氏、母興津氏也とあり、庵原氏も興津氏も今川氏重臣の家柄で、雪斎の生まれたころの当主は、それぞれ庵原左衛門尉、興津藤兵衛なので、父は庵原左衛門尉、母は興津藤兵衛の娘や姉妹ということになろう。庵原氏レベルの国人領主の家でも、「一氏出家すれば九続天に生ず」といった観念があり、子供の一人を出家させていたのであろうか。
ちなみに雪斎は、はじめ善徳寺に入り、そこで琴渓承舜の教えを受けている。九英承菊といった「承」は、師の琴渓承舜の「承」を与えられたのかもしれない。そのあと京都に上り、建仁寺で修行していたところを、氏親から方菊丸(義元)の養育を依頼されたというわけである。
 善徳寺へ
雪斎は駿河へ戻り、方菊丸を伴って善徳寺に入った。なぜ善徳寺だったのだろうか。
一つは、雪斎自身がはじめそこで修行していたからであり、氏親のいる駿府にも近かったからであろう。しかし、もう一つ理由があったように思われる。当時、善徳寺は、駿河国内を代表する臨済宗の寺院だっただけでなく、今川氏の「官寺」とも呼ばれていた。氏親自身は曹洞宗に帰依しており、自身の菩提寺増禅寺も曹洞宗である。しかし今川氏歴代は一貫して臨済宗であり、臨済宗との関係も保っておきたかったからではないだろうか。
さらに、三男の玄広恵探も律宗の遍照光院に入れ、四男の象耳泉奘も律宗の高僧となっているところをみると、氏親自身の頭の中には特に宗派に拘るという考えそのものがなかったことも考えられる。




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