浦賀奉行与力 ~技術を磨く~ |
「荻野流砲術指南桜井代五郎が浦賀奉行所に出張してくる。彼とも相談し、番船にも台場のような大筒を搭載する仕掛台を考案せよ」 土岐は、おそらくモリソン号来航の際の番船からの砲撃の無力さを意識して、このような命令を下したのだろう。番船からの砲撃というのは、小脇に抱えられるほどの小型の砲で、ごく小さな砲弾を発射するものである。人が抱えて撃つようなものであるから、威力は知れていた。時はこの反省から、大型の筒を備えた軍船の建造を構想したのである。 三郎助が技術に疎い与力見習いならば、このような命令は下されなかったはずだ。あるいは、この命令の前に三郎助から何かしらの提案が行われていたのかもしれない。 三郎助たちがどのような仕掛けを提案したか、明らかではない。しかし、より大型の船を建造し、陸上の台場用のような大型の砲を搭載することが提案されてたであろう。軍船に砲を搭載するならば、射程距離の短い当時の砲でも、江戸湾入口を封鎖し、江戸を外国軍戦から守ることは可能である。ただし、提案が採用された様子はない。大船の建造禁止令がまだ生きていた時代であり、提案は非現実的と無視されたようだ。
浦賀奉行の土岐丹波守は、与力の中島清司、通詞(通訳)の堀辰之介とともにマンハッタン号に乗り込み、船長のクーパーと直接交渉した。漂流民は引き取り、薪水は給与するので、直ちに退去されたいということである。クーパーはこれを了解した。 幕府はマンハッタン号の来航の後、新しく台場を築造すると決めた。場所は、浦賀と久里浜との間にある鶴崎と呼ばれる場所である。 このときの浦賀奉行大久保因幡守は、中島三郎助と合原操蔵に、この台場に備える大砲の製作を命じた。先年の大筒を載せる仕掛けの研究に続いて、今度は大砲の製作の命である。今だ与力見習いに過ぎない三郎助だが、浦賀奉行所の技術担当としては確たる評価を得ていたのだろう。三郎助と操蔵はわずか2か月でこの大砲を完成させた。これはちょうど三郎助が下曽根金三郎から高島流砲術の免許受けた時期に重なっている。 よく弘化3年閏5月27日、また異国船が浦賀野比沖にやってきた。今度はアメリカ東インド艦隊のコロンバス号とビンセント号である。艦隊司令官のビッドルは、日本に開国を促せというアメリカ政府の指示を受けて、浦賀に来航したのだった。清米修好通商条約締結の直後である。 浦賀に投錨した二隻の軍艦に対して、奉行所は周辺漁民や回漕問屋の小舟をすべて繰り出し、軍艦を取り巻いて身動きができないようにした。三郎助は番船に乗り込んで、民間の船と異国船との間で不測の事態が起きぬよう警備にあたった。
これらの船をまじかで見た三郎助はさぞかし驚嘆したことであろう。自分が製造したばかりの鶴崎の砲の無力さも感じたのではなかろうか。 ビッドル司令官との交渉は、父の清司が務めた。彼はコロンバス号にも乗り込んでいる。退去交渉の末、結局ビッドルはこれ以上留まるのを諦めた。6月7日、凪の中を多くの小舟に曳かれる形で、コロンバス号とビンセント号は野比沖から去っていった。 次にアメリカ船がやってきた場合、このように平和的な開国要求ではすまぬと、誰もが予想したであろう。ビッドル艦隊退去ののち、清司は奉行を通じて幕府に上書を提出している。江戸湾防備の構想を記したものであった。 清司は、打払い令復活の気運に対して警鐘を鳴らし、武力行使の口実を造ってはならないことを説いた。また、コロンバス号の造りや装備、武装の詳細を記し、このような軍艦には陸上台場からの砲撃では破壊でくぬことを訴えた。 江戸湾防衛策として清司が提案したのは、大砲を搭載した軍船を数隻配備することであった。事件後、浦賀に視察に来た目付の松平式部にも、自分が目で見たコロンバス号の構造と大きさを伝え、このような軍艦を日本で建造することは不可能と答えている。 嘉永2年(1849)閏4月、その清司が退役し、三郎助が跡番代となった。与力中島三郎助の誕生である。三郎助29歳であった。 |