浦賀奉行与力
 ~与力の子として~
 


 浦賀奉行所与力の三男
中島三郎助は、文政4年(1821)1月25日、浦賀奉行所与力中島清司の三男として、奉行所役宅で生まれた。横須賀市西浦賀町の浦賀港の出口当たり、海岸沿いの通りから三百メートルほど裏手の小さな谷の中に、奉行所の与力たちの役宅は、この奉行所の海側と山側に並んで建っていた。三郎助が生まれた役宅は、海側の北寄りだという。
奉行所の与力職は、名目上は世襲というわけではないが、だれか与力が引退するとき、息子にその職を引き継ぎたい場合は、跡番代わりの願い書を出し、奉行がこれを認めて、初めて職が子供に引き継がれるのであった。男児がいない家では養子縁組してその職を守る。
三郎助の父清司は、養子として中島家に入り、養父の保三郎の跡番代として、浦賀奉行所与力となった男であった。
清司も、おそらくは技術系の資質があった男である。今日、浦賀公民館分館の浦賀文化センターには、清司が描いたと思われる浦賀港周辺の絵地図が残されているが、地形は正確で、海底の様子なども克明である。様式的な日本画の素養で描かれたものではなく、写実的記録としての必要性を承知していた者が描いた図面と思われる。清司がもし技術教育を受ける機会に恵まれ、また働く場があったならば、多分彼も技官として名を成していたと思われる。そう思わせるだけのものが、清司の絵には表れている。
その与力中島清司の家に三郎助が生まれたのは、ちょうど浦賀奉行所の組織が拡充され、定員も増加した大改革のあった時期であった。それまで会津藩に命じられていた台場の守備は、浦賀奉行所の管轄となった。奉行もまた二人制となった。これはひと月交代で奉行が浦賀と江戸に交互に務める制度であり、浦賀にある奉行がいわば現地責任者、江戸にある奉行が幕府との連絡調整を務めるというものだ。徐々に強まる開国圧力に対して、幕府は浦賀奉行所の役割を重視し、非常事態に備えて、この機構改革を行ったのだ。清司はこの機構改革ののち御備場(台場)勤務となっている。観音崎台場か平根山台場で砲手の同心たちを指揮していたのだろう。
 与力見習い時代
その父親のもとで、中島三郎助は武士として、そして将来の与力候補生として成長していった。武芸はまず、槍術の宝蔵院高田流に6歳で入門、10歳で目録(合格点)をもらっている。ついで砲術は幕府鉄砲方の田付流の田付主計のもとに入門した。さらに荻野流砲術・集最流砲術、のちに高島流砲術も学んだ。剣術は、天然理心流・北辰一刀流である。
学問のほうは、浦賀の僧侶か漢学者たちのもとで学んだものと思われ、俳句や和歌、漢詩の素養も身につけた。俳号は木鶏である。
三郎助が浦賀奉行所の与力見習いに取り立てられるのは、天保6年(1835)閏7月。14歳の時であった。禄高は与力である父の半分、五十俵(20石)である。
三郎助が与力見習いとなってから2年後、アメリカ商船モリソン号が浦賀に来航する。モリソン号は、日本に開国と通商を求める民間使節船であった。日本に脅威を与えないよう、海賊船対策の備砲までおろしての浦賀寄港だった。
この時期は、異国船の取り扱いについては「無二念打払令」が生きている。浦賀奉行所は幕府に対応をうかがうことなく、奉行の判断でこの異国船に砲撃を仕掛けた。
このとき三郎助は、江戸湾の入り口西側にあたる観音崎台場で配置についていた。当然、モリソン号に対しても、観音崎台場の砲手として、砲撃を仕掛けたことだろう。しかし、射的距離がせいぜい800ⅿ前後のこの頃の和砲では、モリソン号には一発も命中していない。
翌日、モリソン号は野比沖に向かった。モリソン号は、開国・通商を求める手土産として、日本人漂流民7人を乗せてきている。開国・通商が叶わないとしても、その日本人たちだけは日本側に引き取ってもらいたいと期待していた。
しかし浦賀奉行所は、久里浜でも一切の接触、交渉を拒むつもりである。小舟に小型砲を積んでモリソン号に接近。近くから砲弾を撃ち込んだ。砲弾を受けてとうとうモリソン号も接触を諦め、退去していった。
このモリソン号来航事件のあと、三郎助は奉行から褒美をもらっている。異国船打払向勤につきということで白銀二枚であった。久里浜でも、三郎助はその砲術の腕前を見せたということだろう。
天保8年、三郎助は従妹にあたるすずを娶った。すずは、西丸一番組徒岡田定十郎の娘であり、定十郎は中島清司の弟である。三郎助17歳、すず15歳であった。




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