浦賀奉行与力
 ~近代の当事者~
 


日本の幕末の始まりとその最後は、ペリー艦隊(黒船)来航から、戊辰戦争の箱館戦争終結までと位置づけられることが多い。実際には、そんな簡単な割り切りではできないのだが、ざっとそのような位置づけをすると、ある人間がその最初と最後にかかわっていることがわかる。
その人物とは、中島三郎助永胤。
浦賀奉行所の与力であり、ペリー艦隊の来航時、彼は最初に接触した日本人の一人である。彼はのちに徳川海軍の士官となったが、徳川幕府崩壊後、榎本武揚らとともに箱舘に移り、新政府軍と戦い、彼の二人の息子たちと壮絶な死を遂げたのは箱舘戦争終結の二日前のことである。文字通り、幕末の最初から最後までを体験した人物と言える。
彼は、技術系の官吏であった。浦賀奉行時代、日本最初の洋式帆船・鳳凰丸の建造責任者の一人となっており、長崎海軍伝習所では一期生として、蒸気機関学を修めている。また、砲術の専門家であり、海防問題にも造詣の深い官吏であった。
築地軍艦操練所では教官として後進の育成にあたった。さらに幕府海軍の士官乗組員として、榎本軍の士官として、戦いの最前線に立った。
決して著名な人物ではないが、中島三郎助は幕末を真っ直ぐに生きた真の「ラストサムライ」である。彼が戦死した箱舘千代ケ崎陣屋の戦闘をもって、事実上箱舘戦争は終わり、日本近代化の陣痛期というべき時代も終わったのである。三郎助が死に、そこから日本の近代の第二章が始まったといってもよい。
わが地元横須賀が生んだ英雄・中島三郎助のことをここでは語ろうと思います。




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