白虎隊とは ~寄合白虎隊の活躍~ 1・津川口―赤谷・石間の戦 |
ここは8月14日早朝、戦端がひらかれた。山間の隘路では会津の槍隊が制し、平地では西軍の後装スナイドル銃が威力を発揮し、一進一退の激戦が行われる中、会津は徐々に後退し、15日には新谷を占領され、16日にはついに津川の対岸角島への進出を許した。「会津戊辰戦史」は緒戦新谷での白虎隊の奮戦を、「白虎隊は初め胸壁を守りしといえども榎平の敗報を聞き退いて本道に出ずれば、西兵八方山の傍らより銃撃す。暫く止まり戦うといえども、遂に支えず火を綱木に放ちて退く」と報じている。幸い、渡河用の舟艇は全て対岸の津川側に寄せられていたので西軍は渡河できず、川を隔てての銃砲戦となった。この連戦で白虎隊は3人を失い、遊撃隊長の三宅と力士隊長の赤埴は戦死、陣将上田学太輔は負傷。西軍も戦死24、負傷54を出すほどの激戦だった。
ちょうどその頃15日に、赤谷口の戦況芳しからず津川に向けて後退中の情報が入り、石間口諸隊は東西からの挟撃を恐れ16日に後退し、津川から西7キロの谷沢に本拠を置いて五十島まで防衛線を敷いた。しかし18日にはあっさり五十島を抜かれてしまった。ただ21日の谷沢攻撃は、岸壁の峻険さと薩長軍の提携の悪さに幸され、彼らを五十島まで後退させることが出来た。そうこうしながら23日まで各方面昼夜攻防戦を展開し、寄合一番隊も毎日他の諸隊とともに勇敢に戦った。そして24日、若松から母成峠の敗戦が伝えられて一ノ瀬総督以下合議の結果、救援のため帰城と決まり、25日隠密裏に続々津川を離れ、一路若松に戦略撤退を始めた。 |