白虎隊とは
 ~寄合白虎隊の活躍~
1・津川口―赤谷・石間の戦
 


 寄合一・二番隊の活躍
白虎隊の中で一番早く実戦に入ったのは寄合一、二番隊。そこは越後戦線だった。7月15日に若松城を発して17日には会津領先端部の津川に到着した。一番隊(隊長・原早太)98人は8月2日、津川から右折して、新発田に通じる越後街道、津川北方18キロの赤谷駅に着き、すでに先行布陣していた上田伝次郎・遊撃隊・力士隊・猟師隊・地方兵らと合流した。赤谷は新発田藩領と接する会津藩北西部の要衝。西軍も、7月25日に寝返った新発田藩に案内させ、薩摩・長州隊を中心に、加賀・広島・新発田隊・御親兵などが会津と対峙していた。
ここは8月14日早朝、戦端がひらかれた。山間の隘路では会津の槍隊が制し、平地では西軍の後装スナイドル銃が威力を発揮し、一進一退の激戦が行われる中、会津は徐々に後退し、15日には新谷を占領され、16日にはついに津川の対岸角島への進出を許した。「会津戊辰戦史」は緒戦新谷での白虎隊の奮戦を、「白虎隊は初め胸壁を守りしといえども榎平の敗報を聞き退いて本道に出ずれば、西兵八方山の傍らより銃撃す。暫く止まり戦うといえども、遂に支えず火を綱木に放ちて退く」と報じている。幸い、渡河用の舟艇は全て対岸の津川側に寄せられていたので西軍は渡河できず、川を隔てての銃砲戦となった。この連戦で白虎隊は3人を失い、遊撃隊長の三宅と力士隊長の赤埴は戦死、陣将上田学太輔は負傷。西軍も戦死24、負傷54を出すほどの激戦だった。
 奮戦空しく撤退
この間、白虎寄合二番隊(隊長・大田小兵衛)62人はどうしていたのか。彼らは津川から左折して阿賀野川に沿う脇街道を西に15キロ、右岸の石間に向かい、北越戦線から退いてきた陣将萱野右兵衛、朱雀士中四番隊、同寄合二番隊などと合流した。ここでの戦闘は一番隊より早く、8月10日から始まった。はじめは石間の西、対岸の佐取を他隊とともに防衛し、一度は早朝の西軍の攻撃を撃退したが、再度の大挙襲撃に耐え切れず、全員右岸の石間に戻り、13,4日は諸隊とともに胸壁を築き、川を隔てて敵の砲撃に応酬した。この佐取防衛戦で二番隊は3人を失った。
ちょうどその頃15日に、赤谷口の戦況芳しからず津川に向けて後退中の情報が入り、石間口諸隊は東西からの挟撃を恐れ16日に後退し、津川から西7キロの谷沢に本拠を置いて五十島まで防衛線を敷いた。しかし18日にはあっさり五十島を抜かれてしまった。ただ21日の谷沢攻撃は、岸壁の峻険さと薩長軍の提携の悪さに幸され、彼らを五十島まで後退させることが出来た。そうこうしながら23日まで各方面昼夜攻防戦を展開し、寄合一番隊も毎日他の諸隊とともに勇敢に戦った。そして24日、若松から母成峠の敗戦が伝えられて一ノ瀬総督以下合議の結果、救援のため帰城と決まり、25日隠密裏に続々津川を離れ、一路若松に戦略撤退を始めた。




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