預治思想による天下統一i
2.首都としての安土
 ~安土歴~
 


 様々だった歴
フロイスの記録で注目したいのは、信長の誕生日に参詣に来るよう命じた部分である。太陰暦(旧暦)の5月28日前後らしいのだが、これは太陽暦のように1年の日数が一定していないと、ほとんど意味がないのではなかろうか。
当時の日本の歴は太陰暦で、朝廷で定める京歴(宣明歴)のほかに、伊勢歴・三島歴など様々な歴があった。大の月が30日、小の月が29日の組み合わせで、しかも閏月まであったから、来年の今日は365日後ではなかったのである。したがって、個人的な誕生日意識は希薄で、すべての人の誕生日として祝ったのは元日であった。
これと信長が主張した暦法問題には、関係があるように思われる。天正10年正月、信長は暦の変更を要求した。暦の制定は、元号の制定と同様に「時の支配」と関わる問題で、天皇固有の権限のひとつであった。

 歴の変更を要求した信長
当時、土御門家が天皇に献じた京歴では、天正11年正月に閏月が定められていたのに対し、信長は地方暦である「濃尾の暦」の通り、天正10年に閏12月を設定するように主張したのである。
この問題は、天正10年2月に検討された結果、一旦は京歴のまま閏月を置かないことに決定した。しかし同年6月1日に、信長が本能寺に訪れた公家衆に対して、暦の変更を再度申し出ていることからも、この問題をうやむやに終わらせるつもりはなかったと思われる。
桐野作人氏は、信長が暦問題を蒸し返した理由として、京歴が不正確になっており、6月1日の日食を把握できていなかったことに求めている。日食は、当時も不吉なものと意識されていたから、問題視したのではないか。
永禄8年(1565)に暦道を担当していた加茂在富が病没したため、急遽、正親町天皇は天文道担当の土御門有春に暦道兼帯を命じたが、高度な数学能力を必要としたため、技術的な低下を遁れることができなかったのである。
 正確な暦法の導入を目指した
どのような歴の導入を画策していたのかは不明だが、信長は天下統一に合わせて、正確な暦法の確立を目指していたのではなかろうか。支配者にとっても、商人にとっても、不正確で多種の暦が併存していること自体、様々な不都合が生じ問題だったのである。この時期、信長は「時の支配」を実質的に掌握しようとしたとみるべきである。
なお独自の暦は、渋川春海が貞享元年(1684)に暦を作り、江戸幕府が天文方を置いて翌年から導入された。近年では、貞享暦を実施した徳川綱吉が、朝廷とは別個の「徳川王権」を定立し、日本の自然と社会を維持しようとしていたとみる見解もある。




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