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 預治思想による天下統一i
2.首都としての安土
 ~聖地~
 


 首都計画
天正4年頃から、安土城とその城下町の建設が開始される。工事が終了したのは天正8年5月の事で、信長は掘割・船着場・道路の普請が終わったので、同月7日に責任者の丹羽長秀と織田信澄に居城への帰還を許している。
信長は安土を新時代の首都とするべく、中国の都城プランも参考にするなど、様々な要素を注入した。中国の首都では、皇帝の居住する宮城を中心に都市計画が行われた。中国周代の理想的な王朝制度を記した儒教の古典「周礼」には、首都の一は天が地上の中心点として指定した場所であり、天命によって諸侯に君臨する天子の居住地であるとされる。宮城の真南に軸を伸ばしてメインストリートとし、そのラインに三門と広場を配置する方格状町割を採用したのである。
安土城の場合は、天守と本丸御殿を一体のものとして宮城に相当する空間としてとらえるべきである。見逃せないのが天守の位置である。正確に見ると御殿は微妙に中心軸から東にずれていた。宮城の中心軸、つまり大極殿の位置に、信長の天主が聳えていたのである。その真南のラインに「大手」道が伸び、三門と広場があった。
日本の城郭史上、大手門に三門があり、しかも広場(東西約100ⅿ、南北約44ⅿ)まで備えたものはない。安土城の場合は、明らかに中国の都城思想に影響を受けていた。「周礼」には、都城計画において三門を理想としている。その前に広がる広場は、皇帝が様々な儀式を催す場であった。
ちなみに、後年秀吉の政庁となる聚楽第が平安京の大極殿のあった内野に普請されたことは、信長の影響を受けてのものと推測される。聚楽第には行幸御殿があったが、三門や広場は確認されていない。皇居が近くだったからと考えられる。

 中国の都城がモデル
信長は、おそらく中国の古代首都長安や当時の明の首都北京などを参考にしたのであろう。安土城には、開放的で見せる政治の舞台としての意識が充満していたに違いない。したがって従来のように、戦国大名の城郭の発展系列に位置付けることはできないし、江戸時代の城郭に繋がっていく要素も限定されると考えられる。
安土城のプランは、周囲に湖水があり、本丸御殿の背面に天主が聳えるという様式であり、東は馬場、西は摠見寺という二つの峰に連なり、南側は「大手」の堀に連なる水路が流れており、風水思想に見ごとに合致する空間だった。
フロイスは、安土城主郭の西隣に建立された摠見寺に関して、以下のように記ている。
偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、見る者に喜悦と満足を与えるこの安土の城に、全日本の君主たる信長は、摠見寺と称する当寺院を建立した。当時を拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる功徳と利益は以下のようである。
第一に、冨者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、賤しき者が当所に礼拝するならば、当寺院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身になるであろう。しこうして子孫を増やすための子女なり相続者を有せぬ者は、直ちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう。
第二に、80歳まで長生きし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平和を得るであろう。
第三に、余が誕生日を聖日とし、当時へ参詣することを命ずる。
第四に、以上の全てを信ずる者には、確実に疑いなく、約束されたことが必ず実現するだろう。しこうしてこれらのことを信ぜぬ邪悪な徒は、現世においても来世においても滅亡するに至るであろう。故に万人は、大いなる崇拝と尊敬をつねづねこれに捧げることが必要である。
 安土城を聖地に
上記のフロイスの述懐は、従来、信長の神格化と関連して注目されてきた部分である。摠見寺の事実上の本尊は信長で、ここに礼拝に来たならば、裕福になり健康・長寿・子孫に恵まれるが、信じない者には滅亡が待っているという驚愕の内容だ。摠見寺の背後には信長の居城安土城天主がそびえていることからも、摠見寺事態が拝殿で、天主が本尊という位置付けになる。
フロイスの理解が正しければ、信長は安土城自体に聖地としての意味を持たせようとしたのではないか。
聖地安土には、キリスト教の神学校(セミナリオ)や浄土宗寺院なども建設された。信長がキリスト教に好意的だったことは有名だが、安土神学校の跡地にはゼウスに通じる「ダイウス」と言う通称地名が残っている。信長も神学校を時々訪れ、西洋音楽に接したといわれる。
浄厳院は、六角氏の菩提寺として建てられた慈恩寺の跡地に、信長が安土城築城とともに創建し、近江・伊賀両国の浄土宗総本山としたと言われている。天正7年5月に、安土宗論が行われた寺院である。西光寺は、安土宗論の際の浄土宗方僧侶貞安の開基である。信長が保護し、正親町天皇・後陽成天皇の勅願所となった。安土城天主五階の障壁画が、釈迦説法図と釈迦十大弟子図だったように、信長は仏教にも一定の理解があったはずである。
信長は、実は様々な思想と宗教に柔軟な理解を示していたのである。中国皇帝が、あらゆる宗教に寛大で、首都には多様な宗教施設があったことが想起される。元の大都(北京)では、儒教・仏教・ラマ教・道教・イスラム教・キリスト教と実に多くの宗教施設があった。これらが、皇帝支配を強化したといえる。




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