預治思想による天下統一i
1.安土幕府構想
 ~平氏将軍~
 


 本格的な織田時代
「安土幕府」は、天正3年11月における信長の右近衛大将任官が制度的前提で、天正4年正月からの安土築城は幕府建設の起点であり、天正7年の信長の安土城天守移ましと誠仁親王の二条御所への移ましによって本格化し、天正10年に予定された信長の将軍任官と安土行幸で新たな段階を迎える筈だった。
安土城は、天皇の行幸を念頭に置いた将軍御所だった。足利義輝の段階で明示された、将軍が政庁として城郭を構えるという思想は、二条城の築城を直接指揮した信長によって、発展的に継承された。それが、二重の堀の内部に天主・御殿・庭園・馬場を持つ安土城として結実したのであった。
秀吉の大坂築城も当初は信長と同様のプランから計画されたものだった。秀吉が天正11年4月の賤ヶ岳の戦い直後に平姓を称し、大坂遷都を表明し将軍任官を画策したことも、信長の政権構想のアナロジーとして位置付けられるのである。
天正8年閏3月の大坂本願寺との勅命講和を画期として、信長は軍事的にも義昭が組織する信長包囲網を凌駕する天下人となった。政治史的には、これをもって信長と義昭の力関係が逆転し、本格的に織田時代を迎えたといってよい。

 平氏将軍は存在していた
甲斐武田氏を滅ぼした天正10年には、家臣団や領民に加えて陸奥の蘆名氏や薩摩の島津氏など遠国の戦国大名たちからもたらされた音信にも、将軍の尊称である「上様」「公儀」呼称が使用され、足利将軍に対してもそうであったように鷹や馬など数々の献上品が届けられた。
しかし幕府は源氏将軍の独占するところで、信長のような平氏による幕府は先例がないとして、そもそもこのような理解は成り立たないとする声も聞かれる。これに関しては、高橋昌明氏の「六波羅幕府」説を見ていく。
高橋氏は、承安4年(1174)に平清盛の嫡子重盛が右近衛大将に任官したことに「六波羅幕府」すなわち平氏幕府の論理的端緒を認める。治承3年(1179)における平清盛の後白河法皇に対するクーデター、安徳天皇の即位、そして福原(神戸市)行幸とその南方の和田への遷都計画によって、幕府草創から新王朝構築へと上昇脱皮していったと説を展開する。
これに倣って言うと、信長が構想した安土行幸は、事実上の遷都だったとも思える。もし実現していれば、それは治承5年の和田遷都計画以来の事である。奇しくも本能寺の変と同日の6月2日に、安徳天皇は平安京を離れて福原に行幸した。

 徳川史観が曇らせる歴史認識
源氏長者が将軍の兼職と化した江戸時代の常識に引きずられて、将軍には源氏がなるはずだという誤解が生じたとする指摘も重要である。江戸時代以前には、平氏でも将軍になれるとの認識が広くあったことについては、諸史料から散見されるのである。源氏将軍こそ正当とする「徳川史観」に、未だに我々は引きずられているのである。
戦国時代においては、応仁の乱の際に東幕府と西幕府に分裂したし、「堺幕府」の将軍相当者足利義維が「朽木幕府」の現職将軍足利義晴を凌駕する実力を発揮したりする例もあった。二人の将軍とその幕府が、対立・抗争した時代だったのだ。天正4年から本能寺の変までは、足利義昭の「鞆幕府」と信長の「安土幕府」との相克の時代だったと言ってもよい。
幕府は鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府しかなかったとする硬直した幕府概念に縛られていると、中国・朝鮮といった東アジアにおける幕府との比較・検討の道を閉ざすばかりか、戦国時代から織豊期にかけての政治史研究も、一元的で極めて貧弱なものになってしまうのである。





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