預治思想による天下統一i
1.安土幕府構想
 ~二人の将軍~
 


 信長の御内書
信長と義昭がそれぞれ出した御内書の内容に触れてみる。いずれも陪臣クラスに宛てたものである。
 
信長→天正9年6月12日 香宗我部親泰宛
三好式部少輔の事、この方に別心なく候、しかれどもその面において相談せされ候旨、先々相通ずるの段、異儀なきの条珍重に候、猶以て阿州面の事、別して馳走専一に候、猶三好山城守申すべく候也、謹言

信長は、本史料を土佐の戦国大名長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与えて、阿波岩倉城主三好式部少輔を援助して阿波の支配を行うようにと命じた。6月14日付で添状を認めた三好康長は、今後とも若輩である式部少輔(康長の子徳太郎か)を御教導願いたいと依頼している。信長の四国政策の大転換を示すものであり、これが本能寺の変の遠因の一つとも言われている。
書止文言は「候也、謹言」で、宛所は「香宗我部安芸守殿」で、署判は「信長(朱印)」となっており、厚令な様式である。御内書様式を採用する当時の信長文書の典型例と言ってよい。法量は、縦16.9センチ、横47.6センチである。、
 義昭の御内書
次に、本能寺の変直後に作成された義昭御内書である。
 
義昭→天正10年6月13日 乃美兵部丞宛
信長を討ち果たすうえは、入洛の儀きっと馳走すべき由、輝元・隆景に対し申し遣す条、この節いよいよ忠功をぬきんずる事肝要、本意においては、恩賞すべし、よって肩衣・袴これを遣わす、なお昭光・家孝申すべく候也、(以下略)

義昭は、信長横死という千載一遇の好機に臨んで、積極的に行動しようとしない毛利家中に対して命令する。本史料は、義昭が小早川隆景の重臣乃美宗勝にあてて「信長を討ち果たしたので、私の入洛について急いで奔走するべき事を、毛利輝元と小早川隆景に対して申し遣わしたので、今こそ一層忠功を励ます事が肝要である」と指示したものである。自らが信長討滅に関与したことを告白している。
ここでの書止文言は「候也」で、宛所は「乃美兵部丞とのへ」で、署判は大型の花押のみである。法量は、縦20.7センチ、横40.2センチとなっている。
宛先が異なるので安易に判断することはできないが、本能寺の変に近い時期においては、信長も義昭もほぼ同様の御内書を作成していたといってよいだろう。このように、発給文書から見ても天正4年以降は二人の将軍が存在したのだ。
 二つの幕府の激しい争い
上記を踏まえてこの時代の幕府とは、征夷大将軍はもとより左馬頭や右近衛大将など高級武官に就任し、御内書を発給して、戦国大名に軍勢動員や官位叙任・知行宛行などを行い、内外から「公儀」「上様」と呼ばれた権力者による武家政権を指すと規定したい。
そうすると天正4年以降、従三位大納言兼征夷大将軍義昭は、「鞆幕府」に拠っていたのであるし、極官(極めた最高の官職)としては正二位右大臣兼右近衛大将になった信長も、「安土幕府」を開いていたことになる。なお本能寺の変がなければ、嫡子信忠も左近衛中将から昇格して、「安土幕府」を継承した可能性は十分にあるだろう。
本格化する義昭と信長との衝突は、二人の将軍の相克と見るべきである。武家政権が分裂し、正統を争っているのである。この点においても、元亀4年(1573)7月における足利義昭の宇治填島城退去による室町幕府の崩壊と天正改元による織田政権の確立という、これまでの通説は再考されねばならない。なお戦国時代と異なるのは、足利将軍家の内部抗争ではなく、信長という他氏が将軍相当者になったことである。





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