預治思想による天下統一i
1.安土幕府構想
 ~御内書の使用~
 


 御内書
将軍相当者は、将軍の公式文書である御内書を発給していた。いわゆる征夷大将軍ではなかった、例えば「堺公方」の足利義維も当時の現職将軍であった足利義晴を上回るほどの大量の御内書を作成していたことがわかっている。
信長は、天正3年以前は他の戦国大名と同様に、諸大名に対する文書において花押を据え、「恐々謹言」を文章末の書止文書とする書状洋式を使用していた。それが将軍相当者となって御内書洋式の印判状に変化し、表現も尊大化するようになる。
尾下成敏氏の研究によると、天正3年11月以降、御内書・朱印御内書・黒印御内書を発給するという。天正4年の安土時代からは御内書様式の印判状が用いられるようになるが、わかっているだけでも25状。
また信長は、相手との距離感や身分さによって、礼を変えている。長谷川秀一のような近習など親しい者、あるいは土豪クラスの身分の低いものには、書止文言「候也で、宛所(宛先)は「某とのへ」、しかも印判のみの薄礼なものさえある。荒木村重などの重臣には、書止文言「候也、謹言」、宛所は「某殿」で署判は「信長(黒印)」とやや厚札になっている。
 鞆に移ってからさらに花押を拡大させた義昭
足利義昭の公式文書は、戦国時代の歴代将軍が用いた御内書である。書止文言「候也」で宛所は「某とのへ」で署判は花押のみであった。これは、鞆の浦にいた全期間、全国規模で大名や有力領主に宛てて大量に発給されている。
これとセットになって出された添状も、同様に全期間を通じて作成された。これは、一名ないしは二名の近臣が奏者となっており、真木島昭光群を抜いて多い。添状は、信長にあっては点数が少なく、天正8年頃からようやく増加する傾向にあった。
注目すべきは、鞆に移座してから義昭が歴代将軍の中で最大の花押を据えるようになったことである。花押の大きさは、署判全体の主観・願望などが反映されていると理解されるが、義昭の場合は、「鞆幕府」を基盤として、毛利氏との連携によって上洛戦を開始するにあたって気分を一新したのであろう。信長の御内書は、当初より花押ではなく印判であり、しかも署名すらしないものがあり、相当に薄礼である。






TOPページへ BACKします