預治思想による天下統一i
1.安土幕府構想
 ~幕府とは~
 


 「幕府」の実態
織田信長が幕府を開いていたというと、通常の日本史ではそのように教えていないので否定されてしまう。だが実際に信長は幕府同様の政権を運営していたのである。信長の「安土幕府」は、天正3年(1575)11月における信長の右近衛大将任官が制度的前提となった。官職制度上、常置の武官としては最高位の近衛大将への任官によって武家政権を開くことができたのだ。足利将軍家においても、代始めの基準が征夷大将軍よりも右近衛大将の方にあったとする指摘もある。
そもそも、征夷大将軍を戴く政権が「幕府」と呼ばれた事実などはない。古くから近衛大将の唐名として「幕府」の語はあるが、幕府呼称が一般化したのは後期水戸学の影響によるとする指摘もある。幕末の水戸学者藤田幽谷・東湖父子らが、皇国史観的な立場から徳川政権があくまで京都から任命された将軍の政府である事を強調するために「幕府」の名を流行させたものとみるのである。
ここでは、史実かどうかは別にして、武家政権という意味で「幕府」という名を用いる。いずれにしても征夷大将軍任官が幕府樹立の画期にはならない。前近代においては、権限奪取の後にポストが与えられるのが常だったからである。
通説によると、鎌倉幕府は建久3年(1192)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされるが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前に成立しており、現在では実質的な成立を文治元年(1185)とする説が支配的である。同年に、守護・地頭の任免権を朝廷に承認させたことにより、頼朝政権が全国の軍事権・警察権を掌握したとみるからである。
足利将軍家における家督候補者は、基本的に左馬頭に任官して、右近衛大将を経由して将軍に就任している。また左馬頭になりながら家督を継げなかった足利義視や足利義維にしても、将軍相当者としての実権を掌握したことが明らかになっている。
 将軍相当者であった信長
では信長は、どのような官職を得て、どのように表現されていたのであろうか。
信長の場合は、右近衛大将に任官したときは従三位権大納言になっており、しかも正式に陣儀(朝廷の政務評議)が催されて陣宣下があった。それに対し歴代の足利氏の将軍宣下は、従四位下で左近衛中将・参議の場合が多く、義昭も従四五下・左近衛中将であった。信長は明らかに義昭個人ばかりか、足利将軍家の先例を凌駕するように演出したのだ。
信長の呼称については、右近衛大将任官ののち、家臣団にとどまらず諸大名やその家臣、さらには一般からも将軍相当者呼称である「公儀」や「上様」が、さらにはずばり「将軍」が用いられるようになる。
たとえば、明智光秀は天正4年12月3日付書状で、信長を「上様」と呼び平出(貴人に関する言葉が出てきたとき、敬意を表してその文字の上で改行すること)を用い、その出陣と命令を「御動座」「仰出」として闕字(貴人への敬意を表するために、関係する言葉の上に余白を施す事)を用いるという、足利将軍に対するのと同様の書礼札を適用している。
秀吉も天正4年7月17日付書状で、「大坂表御出馬につき、上様御上洛なされ候」と同様の書礼である。光秀や秀吉クラスの家臣団は、信長を将軍相当者と見ていたのである。
また天正4年10月に日蓮宗寺院が京中で行った勘進の使途に関する内部史料によると、「上様」すなわち信長やその家臣への「音信」「見舞」「礼(銭)」ばかりであったことが指摘されている。
 「天下普請」の安土城建築
天正4年正月から開始された安土築城について、側近太田牛一が安土城を「将軍のお館」と規定し、城下町建設については「花洛ヲ移られ」と、あたかも遷都のように表現している。もちろん、信長の壮挙を飾る美辞麗句を含むが、信長側近の理解の一端を示しているといえよう。
これに関連して、安土城の普請が全領国規模で負担が強いられたことに注目したい。これは「安土幕府」の首都建設とみなされたが故の扱いではなかったのか。
たとえば、天正4年10月に近江国内の村々に対して、出家すら例外とする事無く「屋並」に「安土普請」への総動員を命じている。信長は、百姓たちには棒をはじめとする普請道具ばかりか、「塀のすさ」となる材料まで自弁とし、しかも応じなければ処罰することを表明した。
また、京都・奈良・堺の大工・諸職人を動員したり、天正4年11月には近江国中の杣・大鋸引・鍛冶等の職人に、棟別銭・臨時段銭から一般並の諸負担を免除する代わりに、国役として作事を命じている。
このように、信長によって諸国の全ての民衆に課される役儀として、安土築城が位置付けられたのであるが、これは家康による江戸城普請をはじめとする江戸時代の主要城郭の天下普請へと連なってゆくものと位置付けることができる。





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