山鹿流兵学と松陰
 ~江戸での勉学~
 


 江戸へ
松陰は、門戸や家柄に関わらず「剛毅木訥の風」の中で人材を選んでゆくのが大事だ、そうでなければ、いくら文武に長じた人材を重用したところで、必ず軽薄の風に走ってしまい、国家(藩)の利益にはならないとも論じていた。
まだ、自分がどう動くかという問題には至っていない。山鹿流師範としてはまず諸流統一のために奔走し、そのなかから「真の兵学者」が育ってくるのを期待しようという姿勢である。
山鹿流師範としては新しい目標を見つけたのだ。それが大きいと評価すべき所であろう。松陰が山鹿流師範としての自覚と抱負に最も熱く燃えていたのはこの時期だった。
燃える心で江戸へ入ったのが嘉永4年(1851)3月、松陰は3年くらいは江戸で勉強する気だった。松陰には、安積良斎・山鹿素水・佐久間象山をはじめ、多くの学者に会い、様々な学説を知って比較する余裕があった。
「江戸の学界は3つに分かれていると考えられます。大学頭林家と佐藤一斉は、兵学を極端に忌み嫌い、西洋の事などを話題に持ち出すと老子や仏教の害より悪い、と言われるそうです。次が良斎や山鹿素水で、西洋には何の学ぶべきこともないが防衛論の見地からは必要なこともあるという態度。第三が古賀謹一郎や佐久間修理(象山)で、西洋の学術文明には極めて勝れたところが多いからと、しきりに研究しております」
萩の叔父、玉木文之進にこう報告している。そして自分としては「第一グループの林家や一斎は問題にならない。第二第三の説を湊合して研究すれば何かしら得るところがある」と考えていた。とはいえ林家批判をあからさまにするとどんな文句を付けられるかわからないから、よろしく御引き合わせを、くらいの挨拶はしておいたろう。
 歴史を知らぬ松陰の悩み
はじめは月のうちに30回も研究会読書会に顔を出していた、と自分で書いている。一日一回の割合は多すぎるから「とにかく会の数を減らさなくてはどうにもこなしきれません」という状態だった。
あちこちの読書界へ出席しているうちに、松陰の勉強にも変化が現れてきた。まず、歴史に対する知識の絶対的不足に気づき、悩み始めた。歴史をやる必要があるらしいとは、九州から帰った時点で、おそらく会沢正志斎の「新論」によって気づかされたことだ。国家国体という概念は歴史を学んだうえでなければ取り組めないものだが、それが自分には出来ない。
「歴史を一つも知りません。通鑑や網目なんかでは足りぬ、本史を読まなくてはならんと教えられましたが、二十一史ぜんぶとなれば何と大量になることか。とりあえず史記から、ぼちぼちとりかかりました」
経学・興地学・砲術・西洋兵書・本朝武器制度・文章・七書・武道―ひとつひとつ数え上げてみると、とても5年や10年では終わりそうにない。これでいったい「自分は武士として完成できるのか」と考えてみれば覚束ないこと甚だしく、兄に「方寸錯乱、如何ぞや」と泣き言をいうくらいになってしまった。
 武教全書には自信
これに対比して面白いのは、「武教全書」については自信らしいものを得たことだ。九州旅行で仲良くなった熊本の宮部鼎三・三科文次郎・長原武そして松陰の4人が集まり、ときには山鹿素水にも参加してもらって、「武教全書」の討論会をやる。
3人のうちで最も弁が立つのは宮部で、松陰は「好敵手」と見ていた。宗家の山鹿素水をやりこめることがしばしばあって、傍から見る松陰にも「快甚々々」と思わせるほどだった。長原は「読書力は高く、面白い存在ではあるが、気力に乏しい」と見ていた。三科については何も言っていないところから察すれば、学識ともに平凡、と見ていたのだろう。
ここには「素水旧来の門人では長原と三科の二人だけです」という文句がある。「自分はこの二人としか交際していない」の意味か、でなければ「素水の古い門人としてはこの二人しか残っていない」という意味だろう。どちらにしても、江戸の山鹿家は景気が良くなかった。
素水個人の学識はともかく、全体的な立場から兵学を考え直すべき時が来ていた。萩で諸流統一を唱えた松陰は、この課題に着手していたといえる。




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