山鹿流兵学と松陰
 ~軍事諸学への啓示~
 


 旅行を終えて
長崎で20日ほど過ごし、天草から熊本、そして佐賀を回って萩に帰ったのは大晦日であった。およそ4か月わたる旅行であった。
藩庁の許可は「家学修行」となっていたはずで、それほど厄介なことは問われないにしても、山鹿流軍学はどうしたのかという問題は残る。その点は「平戸で宗家を訪問してきたから、文句はないでしょう」で済んだのだろう。ヒエラルキーを重視する伝統学問の世界には、肝心の事が同時に抜け穴になるおかしさがある。
松陰の中で、必ずしも山鹿流がダメだという結論に達したわけではない。世界の広さ、その世界から容易ならざる局面にあり、日本がその焦点の一つになること、刺激的な書物が沢山あり、そのほとんどが萩では見たこともなかったこと、そういうことを知った。
日本がどうなるのか、という思いが浮かび上がってきたのもこの九州遊学中のこととみていい。
 「真の兵学者」の育成
嘉永4年(1851)は正月から忙しい。師の林真人から山鹿流の極秘三重伝の印可返伝を受け、次いで藩主に対して山鹿流の皆伝を授けた。九州遊学の職責上の成果をこのように積んでゆく。
藩主の参勤出府に随行して江戸遊学すると決まり、出発を前にした2月には「文武稽古万世不朽の御仕方立気付書」なるものを上申した。
「良法美政は、つまるところは風俗を変化させる術であります。良法美政が人心に浸み込み、それが風俗となってゆけば、それこそ万世不朽の策と考えます」と前文で説き、専門の兵学について見解を述べる。
「兵学は一流一派にこだわって相互交流が無ければ実用に叶いません。個々の門戸を張り、他流との対抗ばかりに意を用いている現状は甚だよろしくありません。三流(山鹿・北条・合意三島)が全く別体になっておりますから、いずれはこれを一洗して諸流統一を実現し、文学と同じく明倫館居寮制度のうちに吸収しなければ真の兵学者は育つものではありません」
また、別稿では「個人の小武芸とは違い、兵学砲術の事は、門戸がわかれていては御為よろしくないと存じます」と書いている。何々流兵学師範として無事に努めればよい、これまではそうだったかもしれないが、これからはいけないというのである。
この時点で松陰は、自分の役割を「真の兵学者」育成の立場に規定していたと思われる。諸流の統一は、統一後の運営も含めて明倫館のカリキュラムに組み込んでゆかねばならぬというのだから、とりあえずは兵学全体を公的な場に押し出すべきだという見解でもある。




TOPページへ BACKします