山鹿流兵学と松陰
 ~九州遊学~
 


 平戸へ
嘉永3年(1850)8月、松陰は許されて九州遊学の旅に出る。
まず目指したのは平戸である。平戸には山鹿流の山鹿万助がいた。山鹿流軍学を家学とする松陰としては平戸へ行くのがまずは当然であった。
平戸には葉山佐内という人物もいる。専門の儒学者ではないが、佐藤一斉門下の逸材として名高かった。佐内を訪ね教えを乞えといったのは、松陰の師の林真人である。佐内と松陰は父と子ほどの年齢差がある。だがそれがかえってよかったらしい。50日余りの平戸滞在中、手を取って導くような教授が行われた。
9月14日、旅館を探したがどこも断られてしまう。そこで佐内の家を訪問すると、佐内の指示で紙屋という旅館に泊まることができた。佐内から「伝習禄」「辺備摘案」を拝借し、夜通しかけて「摘案」を写したという。
9月16日には、佐内宅で「聖武記付録」を読んだ。佐内は「古に倣えばすなわち今に通ぜず、雅を選べばすなわち俗にかなわずというくだりに感心したようで、欄外に印があったという。佐内は陽明学を好み、佐藤一斉を尊敬している。一斉のこととなると、まるで一斉がここに座っているかのような話しぶりになるそうだ。
翌17日には、佐内邸で「聖武記付録」を読む。
陽明学の主要書「伝習禄」を松陰が呼んでいなかったのは意外な気がする。とにかく松陰は、佐内の学識人格にすっかり敬服した。佐内は五百石の大身で中老の身分にあるのだが、少しの傲慢をも感じさせなかった。
 葉山佐内と山鹿万助
平戸の武士は必ず一艘の小舟を持ち、暇があれば漕ぎ出して魚を取るのが娯楽だった。60歳になろうとする佐内も例外ではない。
「海島の武士はこうしていなければ、いざというとき役に立たぬのだ」
佐内はこれが口癖だった。松陰は、「西南諸国は昔から水戦が得意と誇ってきたが、平戸の習慣を見るとそれはもっともなことだ」と思った。
佐内に比べると、山鹿万助との接触は決して感じの良いものではなかった。これは松陰の側にも責任があって、山鹿流の宗家にあいさつに出向くというだけで緊張するところがあったのだ。何度か訪れるうちに緊張もほぐれ、万助もそれほど威張っているわけではないとわかったので、それで充分だった。
平戸滞在を切り上げる日が近づいてきたとき、松陰は萩にいる兄の梅太郎に次のように知らせた。
「平戸人の「武教全書」の読み方は、何ともまあ、精密そのものです」
うんざりした気分で書いたに違いない。ここでいう平戸人とは、山鹿万助直門の山鹿流兵学者のことだ。「武教全書」のどこをどう読めば山鹿素行の意にかなうか・・・・まるで重箱の隅をつつくような読み方にしか松陰には思えなかった。




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