山鹿流兵学と松陰
 ~山鹿流軍学~
 


 山鹿流軍学とは
杉百合之助の次男として生まれた松陰は5歳の時に、叔父吉田大助の養子になってその家を継ぐことになった。この吉田家は山鹿流軍学を家学として毛利氏に仕える家だった。松陰の公生活の大枠はここで決定された。彼は毛利家山鹿流軍学師範として生き、好機を得て次代に譲るはずだった。
が、実際にはそうならなかったのは周知のとおり。
山鹿素行が体系化した兵学を山鹿流という。素行は小幡景憲と北条氏長に兵学を学んだから、いわば甲州流の発展的後継者といえる。だが素行は、兵学の専門家ではない。林羅山に儒学(朱子学)を学んだのをはじめ、神道にも造詣の深い、オールラウンドの儒学者であった。
彼の唱えたのは、学問は実際的有効性を持たねばならぬということであった。「実学」の概念が重要視されるのも素行の特徴である。
この観点から改めて兵学を考え直すところに山鹿流兵学が生まれてくる。つまりそれは「武士とは何か、何をすべきか」に対する充分な回答を用意するものでなければならない。「武教要録」「武教小学」「武教全書」「武教三等録」という兵学書のタイトルに共通する「武教」の二字に彼の抱負が良く示されている。
兵学の三要素は城・備・戦だと言われるが、それについて素行は、城郭の構造を如何にするかが重要なのではない。一身を固く保つには自分の心を城に安置することが必要だ、という見解を示す。城そのものは目的ではない。目的は、「武士とは如何にあるべきか」の日常行動の規範と実践であり、城は武教を展開するための素材に過ぎないという。(あまりにも精神論が強すぎる教えで、かえって実践的ではないと思われるが)
山鹿素行の人と学説は、泰平到来が確信されるにつれ、新鮮なものとして受け入れられた。彼を最も厚く遇したのが、赤穂浅野氏であることは有名だが、津軽氏や平戸の松浦氏も素行を厚遇し、その子孫を需臣に抱えていた。
その平戸山鹿家が松陰の人生に大きな影響を持つようになる。
 秀才の萌芽
松陰は自分の意思で山鹿流を学んだわけではない。吉田家の後継者として否応もなく学ばされた。
もう一人の叔父、玉木文之進が松陰の師になった。四書五経といった基礎的なもの、素行の著の平易なものを、四六時中詰め込まれた。
「この子はよくできる」と見込みのついたところで、いっそう詰込みは拍車がかかったであろう。「よくできる」とは、言われたことを何でも吸収するということで、独創のひらめきを見せることではない。
天保11年のある日、当時11歳の松陰は「武教全書・戦法編」を主君毛利敬親に進講する晴れの舞台に立つ。松陰はすべてを暗記し、声を張り上げて朗々と講じたであろう。この進講は主君敬親に激賞され、これで家学見習いとなり、19歳で独立した山鹿流軍学師範となる。
自宅にこもってひたすら読書、時に藩校明倫館に出かけるくらいの日々が数年間続いた。学問上の壁にあたって懊悩することはなかったようだが、それは彼がまだ自分の学問を持たないからだ。この状況では疑問も悩みもあり得ない。
ふつうは、このように無味乾燥な日々が続くと、生来の性格さえ変わってしまうのが人間のはずなのだが、松陰の場合は自信喪失と傲慢のいずれにもならず、他人への思いやりや優しさは、少年のころとほとんど変わっていない。学者は風流を解せなければ一人前ではないという雰囲気に対しては「気が向かぬことに手を付けようとは思わない」と言っている。この発言などは、自分というものを掴みかかっている状態と思われる。
それからまた「自分に才も力もないのはよくわかってきた。いにしえの人を慕しく思うことはできても、同じようなことを考えるところにはとても上達しない」と記したこともある。
率直な気分で「自信がないといえるのは、健全な精神の持ち主であることの証明である。
「萩の山鹿流は吉田だ。若いのにかなりできるらしい」
このような評判が広がるのも近かった。




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