信長の心底 ~うつけもの~ |
父の信秀は、尾張守護代の家老、つまり守護斯波氏の二人の守護代のうち、清州にあって尾張下四郡を支配する守護代織田大和守家の三奉行の一つだった。織田氏は越前国丹生郡織田庄の出で、越前・尾張をともに領した斯波氏に仕えたことから、尾張に移ったと考えられている。 戦国大名の中では決して高い出自ではないが、「代々武辺の家」で、信長の父信秀は「とりわけ器用の仁にして、諸家中のよき者御知音になされ、御手につけられ(信長公記)」と、才覚によって勢力を伸ばし、尾張半国の実質的な支配者になっていた。
「信長は16・7・8の頃までは特にこれと言って遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、また3月から9月までは川で水練をした。泳ぎは達者であった。その頃、竹槍の訓練仕合を見て「槍は短くては具合が悪い」と言って、柄の長さを三間(約5.5m)または三間半にそろえさせた。 その頃の信長の身なり・振る舞いと言えば、湯帷子を袖脱ぎにして着、半袴。火打ち袋やら何やらたくさん身につけ、髪は茶筅髷。それを紅色とか萌黄色とかの意図で巻き立てて結い、朱鞘の太刀を差していた。お付きの者には皆、朱色の武具をつけるように命じ、市川大介を召し寄せて弓の稽古、橋本一巴を師匠として鉄砲の稽古、平田三位を絶えず召し寄せて兵法の稽古、それに鷹狩りなど。特に見苦しいこともあった。街中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、街中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた。その頃は世間一般に折り目正しいことが良いこととされていた時代だったから、人々は信長を「大馬鹿者」としか言わなかった。」(以上訳文) このように、軍事練習にいそしむ一方で、わざと異形な出で立ちで、だらしなく振る舞っていたことがうかがえ、大人たちから顰蹙を買っていたことがわかる。
信長の父信秀も、京都からやってきた公家を丁重に扱って家臣など周囲の武士と共に芸能を学び、内裏の修理費などとして朝廷に多額の献金を行っている。信秀の「三河守」の官位も、伊勢外宮仮殿造替費の捻出によって得たものであった。 また、当時の有力武家の館は、室町幕府すなわち京都の将軍邸が規範になっている。15世紀前半からすでに将軍の直臣である各地の国人は、京都の「花の御所」に似せた館をつくっているし、応仁の乱以降任国に下向して、本格的な領国の中心地として守護所を建設した守護たちも、やはりその館は将軍邸そっくり、すなわち平地に造られた館で、内部には庭園とそれに面した会所を持ち、外には室町幕府の屋外儀礼である犬追物の馬場がつくられていた。こうした館を持つことが、大名としての権威を保つために必要だったのである。 このようなことは、当時の大名たちの名前を見てもわかる。織田氏の主家斯波義廉をはじめ、今川義元、佐々木(六角)義堅、朝倉義景、大内義隆、島津義久・義弘、大友義鎮(宗麟)など、いずれも名前に「義」の字がついているのは、言うまでもなく将軍足利家から名前の一字をもらう「偏諱」を賜るという行為である。権威の源泉は京都にあり、その真似をするのがすなわち権威だったのである。
また、周囲の大名たちは、すでに権力の集中を強めて、居城も室町幕府的な平地の館から、山城へ移る傾向が顕著になってくる。尾張は統一が遅れ、いまだに一国を制する権力さすら出現していない。武家の世界だけでなく、地域経済や全国的な流通が勃興し、再編され、都市形成の動きが急速に広まっていた。地域では市場が叢生し、堺や博多、あるいは寺内町など、商人たちによる自治的な都市が隆盛を見せ始めている。町によく出歩いていたらしい信長は、こうした流通経済の動きや商人世界の自立の気配も敏感に感じ取っていたに違いない。このままではだめだという苛立ちが、信長を「大うつけ」にさせていたのかもしれない。 |