2・合衆国独立 合衆国憲法 |
合衆国憲法草案 |
アメリカ連合全体を通じて解決すべき共通の問題が存在し、連合の統治に利害と責任を持つ主権者人民を創り出す必要があることを連合の指導者は認識していた。1786年彼ら有志の働きかけでヴァジニア議会が提議して、アナポリスで各共和国の代表が連合の租税と通商規則について討議することになった。会議には5共和国の代表が会合したに過ぎなかったが、そこでのアレキサンダー・ハミルトンの提案に応えて、連合会議は連合規約の改正を討議する特別会議の開催を決めた。ロードアイランドを除く12共和国から代表74名が任命され、翌87年5月55名がフィラデルフィアに会合した。常時会議に出席して指導したのは30名足らずで、秘密会としたため各代表が自己の考えを自由に展開して、9月合衆国憲法草案を制定した。 会議では代表のあいだで連合規約は廃棄し新憲法とすることが基本的に了解されていた。憲法の中核は、人民に直結する基盤を持ち、独立した財政基盤を有し、全国的な事項を処理し、立法行政司法の三部門からなる中央政府を創設することであった。州を経由せず人民と直結するために、合衆国下院議員は州を分けて一定の人口数の選挙区から選ばれることになった。ここに理念上、人民は代表の選挙を通じて各々の州とは別個に、直接合衆国全体の利益の増進に関心を持ち責任を有する主権者となった。行政部の長、大統領も間接選挙ではあれ、人民の投票で選ばれるものであり、人民と合衆国が密接不可分の存在となった。単に意識の上だけでなく、制度上も合衆国人民が初めて誕生したのである。同時に合衆国政府は人民の幸福に必要なことを効率的に実現していく責任と権威を持った。 下院議員の割当てが人口を基盤とすることから、二つの問題が生じた。一つは、小州の利害が大州の利害に押し切られる恐れがあることであった。これは、上院の方の議員数を各週同数、2名とすることで妥協が図られた。2番目は、下院議員を割当てる基礎となる人口数のなかに黒人人口を含むか否かで、南北諸州の意見が対立した。この問題は、黒人を白人の5分の3と数えることで妥協が成立した。国際的な通商条約をめぐっても南北の諸州が対立した。具体的には物資輸送の大動脈、ミシシッピ川の航行権確保に対する南部の不安があった。そこで、国際条約の批准には上院の3分の2の多数決が必要だとする妥協も成立した。 |
憲法批准 |
1787年9月最終草案が代表39名の署名のもとに制定された。憲法草案は各週での特別の憲法会議で批准を得て発効する運びであった。ただし、全国的な中央政府の発足を確実なものとするように、全国政府の樹立・憲法の発行は全州の批准がなくとも9州の批准があった時に、その9州のあいだで効力を持つことになっていた。 ところが合衆国憲法には強い反対勢力があった。ロードアイランドはそもそも代表選出を拒否していた。反英運動では火付け役だったパトリック・ヘンリーも、憲法制定会議代表に選ばながら陰謀の恐れありとして出席しなかった。新連邦政府が中央集権的で専制であると警戒する人々は、アンタイ・フェデラリストと呼ばれた。憲法推進派はフェデラリストと呼ばれ、中央政府による国民経済の物的、制度的なインフラストラクチャ整備の必要を感じた人々であった。帰趨が特に注目されたニューヨークでの批准を促進するために、ハミルトンとジョン・ジェイ、それに憲法会議を指導したジェームス・マディソンの3人が「ザ・フェデラリスト」を執筆した。これは憲法草案が現状でいかに必要なものかを主張しながら、利害による党派政治の必然性、三権分立、特に独立司法による権力の抑制、大きな共和国の可能性などを深く洞察し、今日民主政治に関する古典の一つとなっている。 批准はかなり順調に進み、1788年6月ニューハンプシャーの批准で9州に達して合衆国憲法が発効した。しかし独立13州の中心であるヴァジニアとニューヨークの批准がなければ連邦の基盤は崩れてしまうので、両州の去就が注目された。6月末にヴァジニアで、7月にはニューヨークでもかろうじて批准され、合衆国政府樹立の準備が始まった。しかし批准の過程で、「権利の章典」の追加が問題となった。マサチューセッツの憲法会議が批准の条件として権利章典を要求し、以後ほかの州もこれに倣ったので、最初の議会で憲法の修正を発議して人権規定条項を追加することが了解されるようになった。実際にそれは91年憲法修正10か条として成立した。1789年に合衆国政府が発足したのち、ノースカロライナが89年11月、ロードアイランドが90年5月に憲法を批准して連邦に加入した。 |