3・19世紀のアメリカ
綿花王国と産業革命

    南部の綿花王国形成と北部の工業化
この運輸革命の時代は、南部における「綿花王国」の形成と北部における工業化の時期でもあった。この期間にケンタッキーからミシシッピ川を越えてテキサスに至る広大な南西部地域が奴隷州として連邦に編入されることになった。この奴隷制の急激な西方拡大を可能にしたのはイギリスの産業革命であった。英国の莫大な綿花需要が18世紀後半停滞していた奴隷制経営を一挙に活性化し、プランターたちは多数の黒人奴隷を引き連れて西部へ移住し新たな農場を開いた。1820年代以降南北戦争直前の時期まで、合衆国の綿花輸出額は総輸出額の50%以上を維持し続けた。この莫大な外貨収入は合衆国全体の自由な資本賃労働関係に基づく市場経済の発展にも貢献した。ニューイングランドの綿工業や靴工業、ニューヨーク市の既製服産業、家具生産等にとって、奴隷制南部は重要な消費財市場を提供することになったのである。
北部の工業化は建国直後から始まった。英国移民サミュエル・スレイターがクエーカー商人モーゼス・ブラウンの資金提供を受けてロードアイランド州ポータケットに米国で最初の水力紡績工場を建設し、1790年末に生産を開始した。その後この工場で働いた職人たちがスレイターと協力し、あるいは独立して、次々に新しい工場を建てていった。これらの工場制度はロードアイランド型と呼ばれ、その特徴は労働者を家族ぐるみで雇用し、各家族の児童を安価な不熟練労働者として利用する点にあった。このような家族の出自はニューイングランド農村の過剰人口となった子沢山の貧農であった。この種の工場は19世紀後半、南部ニューイングランドから中部太平洋岸諸州一帯に普及した。
    英国に肩を並べるまでに発展
米国工業化のもう一つの画期は1807年にあった。1806年のナポレオンの大陸封鎖令以後、英仏の大西洋上戦が激化し、両国による米国商船の拿捕事件が続発した。米国政府は経済制裁として1807年出航禁止令を出し、米国船の海外出航を禁じたが効果なく廃止に追い込まれた。結局、1814年のナポレオン没落後まで、米国商人資本家の海外貿易活動は厳しく制約されることになった。
その結果、製造業製品の国内自給が高まり、大商人資本家集団「ボストン・アソシエイツ」は貿易不振の打開策として初めて国内製造業に目を向けた。彼らは1813年、フランシス・ローウェルの主導のもとにマサチューセッツ州ウォルサムにボストン製造会社を設立し、6年間に60万ドルもの大金をつぎ込み、大規模な運河を作って推力を調達し、世界で最初の機械による紡績から織布までの一貫工場を建設した。その後ボストン商人たちは、「ローウェル型」ないし「ウォルサム型」と呼ばれるこの型の工場をニューイングランド北部の各地に建設した。それまでのロードアイランド型工場と違って、この型の工場は最初から大会社として設立され、一工場当たりの労働者数も数百人に達した。その主な労働者はニューイングランドの農村からやってきた未婚の女性たちで、会社の寄宿舎に住んでいた。労働時間は1日12時間を超えた。経営者たちの自慢の福祉対策にもかかわらず、女工たちは早くも1830年代中頃ストライキやデモを行った。さらに1837年恐慌後、賃金が大幅に切り下げられたあと、大量のアイルランド人移民がこれらの工場で働くようになった。工場労働者の状態は悪名高きイギリス労働者階級の状態と大差なくなった。米国綿工業は1830年代末までに、力織機導入の割合ですでに英国に劣らぬ水準に達し、英国と十分競争できるまでに成長していた。
19世紀前半、金属加工業も目覚ましい発展を遂げた。早くも1830年代末にフィラデルフィアの製造業者たちは産業革命の母国イギリスに蒸気機関車を輸出していた。鉄砲生産の互換式大量生産方法は当時世界最新の技術であり、20世紀のアメリカ的生産方法の先駆とされている。すでに1840年代までにアメリカ職人はミシン、収穫機械、木製時計などおびただしい数の発明や改良をして、それらの大衆向け大量生産に成功していた。農村工業から都市の大工業への製鉄業の発展のためには、溶鉱炉燃料の木炭から石炭への転換が必要であったが、これも1850年代に大方完了し、イギリスからの輸入と競争しながら鉄道レールの国産化も始まっていた。
    マニュファクチャーの展開
南北戦争前の機械製工業の発展には目を見張るものがあった。しかしこれと平行して、下請け生産を抱え込んだ「マニュファクチャー」も広範に発展した。スレイター工場の場合でも最初は、工場内で生産された糸は周辺の農家に布を織らせたあと、全国市場に出荷された。この型の工場で織布に機械が導入されるようになったのは1820年代のことであった。
ボストン郊外の町リンは、19世紀前半に米国最大の靴工業町に発展し、周辺の諸タウンと合わせて一大靴製造業地域になった。この町の靴企業家は、自分の屋敷内で熟練職人を雇って革を裁断し、在宅女性に縫い合わせをさせた後、回収し仕上げをして、遠く南部の奴隷や西部の農民が使用する靴として出荷した。18世紀のリンの町の靴工たちは、半農半漁民で家畜を飼って生活していた。しかし1830年代までに彼らの大半は専ら靴製造の賃金で生活するようになっており、家畜を飼っている者はほとんどいなくなっていた。彼らは紛れもなく労働者になっていた。1854年ミシンが導入され、その後労働者の工場集中が急速に進んだが、自宅でミシンを使う労働者も存続した。1860年この地域の2万人の靴工が参加したストは、南北戦争前、全国最大規模の労働争議であった。
製靴業と並んで、女性の下請け賃仕事に依存して全国市場向けの生産を大規模に発展させたものとして、ニューヨーク市の衣服産業がある。まず、英国製品の輸入や全国市場との結びつきを持つ商人資本家が女性の低賃金を使って既製服生産に乗り出し、これまで注文生産していた親方職人もすぐ後を追ってこれに続いた。1830年代までに、300人から500人を雇う企業がいくつも現れていた。
このほかにも東部の海港都市には市場経済の展開に触発され、家具製造業、桶製造業、出版印刷業、造船業等々多くの産業が資本主義企業として発展した。さらに増大する都市居住民向けの住宅建設企業や精肉や製パン等々の食料調達など、地域的な生活関連商工業に従事する都市人口も爆発的に増加した。







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