3・19世紀のアメリカ
運輸革命

    諸都市の急激な発展
18世紀の白人定住地の拡大は非常に緩慢であった。大半の住民が大西洋岸とそこに流入する河川に隣接する地域に住んでいた。西欧ではすでに何世紀も前にほとんど使われなくなっていた木製鋤を使用する原始的農業が新大陸で再現し、これが19世紀初頭まで続いた。道路は整備されておらず、雨が降れば思い荷馬車はぬかるみで動かなかった。内陸には、外部市場からの多くの現金収入を期待できない自給自足的な半農半工の農村社会が広がり、人々は隣人相互間で生活必需品を調達しあっている。個人主義的な市場経済の萌芽はあったが、共同体的な互酬関係が普及しており、利潤動機に基づく外部市場向けの農業生産が飛躍的に発展するような社会経済的基盤は成熟していなかった。したがって海港都市の大商人たちは、独立革命後、西インド諸島の砂糖やアフリカの奴隷商品を取り扱う大西洋貿易だけでなく、新たにアジア貿易の開拓にも目を向けていた。
建国直後にフランス革命がおこり、以後1814年ナポレオン没落までの4世紀半の間に、英仏の商業的覇権をめぐる最後の決戦が大西洋を主な舞台として展開された。これに勝利した英国はパクス・ブリタニカの時代を迎えることになる。この最後の決戦が始まった1790年代は米国の商人資本家達にとっては絶好のチャンスだった。
英仏領国が相手国との貿易を禁じている間、米国商船は中立国の旗を掲げて、大手を振ってヨーロッパと西インド諸島との間の中継貿易の拡大に乗り出し、とくにニューヨーク商人は漁夫の利を占めることになった。ニューヨーク港は西インド諸島からの距離という点でボストンより近く、外洋に面しているという点でフィラデルフィアやボルチモアに比べはるかに有利であった。ニューヨーク市の輸出額は1797年にフィラデルフィアを抜いた。この港町は人口でもフィラデルフィアを抜き1810年には9万6千人を超え、南北戦争直前にはブルックリン市を含めて人口100万のメトロポリスへと発展していた。
しかしこの間、他の諸都市も急激な発展を遂げ、第2位のフィラデルフィアも1860年に50万を超えていた。この19世紀に入ってから北東部海港都市人口の急増は、国際中継貿易ではなく、遠くメキシコ湾にまで及ぶ国内大西洋沿岸商業と、各海港都市を中核に形成された内陸地方を包摂する市場経済の発展に支えられてたのである。
    エリー運河
国内経済発展はまず道路建設から始まった。その口火を切ったのは、州内の後背地で算出する大量の食料や木材や鉄の輸送を必要としたペンシルヴァニア州であった。1794年州議会の特許を得てフィラデルフィア・アンド・ランカスター有料道路会社が設立され1794年に完成し、その後北東部の各地で有料道路が建設された。
運輸コストの削減と大量輸送の実現という点で、19世紀前半のもっとも画期的な事業はエリー運河の建設であった。この計画はハドソン河畔のニューヨーク州都オルバニーからエリー湖岸のバッファローまで東西に延々364マイルに及ぶ大運河計画であり、州営事業として1817年に着手され1825年に完成した。その後拡張工事が行われ、建設開始直前バッファローからニューヨーク市までの1トンの貨物運輸が約100ドルだったものが、1852年には3ドルから7ドルまでに低下した。この運河建設の結果、ニューヨーク州内のほとんど原野であった中部から北西部にかけての地域が一挙に開発された。この広大で肥沃な処女地に入植した農民たちは、当時の改良された農機具を使って、大量の安価な農産物を大西洋沿岸諸都市に送り込んだ。そしてこの運河沿線には、ユティカ、ロチェスター、ロックポートのような、農産物を集荷し農民向けの農機具や生活必需品を生産する町が、突如として出現した。緩やかな丘陵地帯の連なる風光明媚なフィンガーレイク地方の田園風景は、このようにして作り上げられていったのである。さらにこの運輸ルートは五大湖の水運と連結し、中西部だけでなく、遠くカナダの農産物をニューヨーク港にもたらすことになる。この運河は20世紀になっても拡張工事が続けられた。
エリー運河の成功は、西部市場への進出を目指すフィラデルフィアやボルティモアの商人たちの競争心を煽り、彼らも独自の西部へ向けての運河建設に着手し、さらにこの運河熱は中西部諸州にまで蔓延した。運河建設は西部だけに向かったわけではない。ニューヨーク市とフィラデルフィアを結ぶ運河や、ペンシルヴァニア州東部の無煙炭や鉄を搬出するための運河も建設された。このような短距離運河の場合、建設資金も少なくて済み、人口密度の高い地域内で大量の商品輸送が可能となるので、資本家たちが会社を作って建設に乗り出す場合も少なくなかった。運河では岸の側道から馬に曳かせることができたので、自然の河川運河よりも安全に低コストで運ぶことができたのである。
    鉄道の建設
巨大河川の場合、ロバート・フルトンが早くも1807年に上記ボートをハドソン川で運行し、間もなく西部のオハイオ・ミシシッピ水系でも上記ボートが実用化された。しかし19世紀前半のミシシッピ貨物運輸の主役はまだ筏下りであり、その最盛期は19世紀半ばまで続いた。運河を含めて内陸水上運輸の難点は自然的制約であった。ペンシルヴァニア州がエリー運河に対抗して東部のフィラデルフィアから中西部の玄関ピッツバーグとの間にペンシルヴァニア幹線運河を建設しようとしたとき、アレゲニー山脈が巨大な障害として立ちはだかった。この難題は中継鉄道の建設によって解決された。
多くの運河建設計画は1837年恐慌によって破綻したが、1830年代に始まった鉄道建設がその後内陸開発の主役となった。そして南北戦争直前までに合衆国のミシシッピ川以東、とくに北部地域全体が、鉄道幹線網によってほぼ連結された。このような運輸手段の発達は港湾・河川改修と併せて「運輸革命」と呼ばれている。この「運輸革命」こそが、アパラチア山脈を越えオハイオ川を下る爆発的な西部開拓の展開を可能にしたのである。
これによって、18世紀の自給自足的農業とは全く異なる遠隔地市場向けの商業的農業が、広大な中西部一帯に広がることになった。1847年シカゴに最初の工場を建てたサイラス・マコーミックは彼の収穫機械を瞬く間に中西部一帯に普及させ、耕地面積は拡大し、農業生産力も飛躍的に発展した。1860年の州別人口順位もニューヨーク、ペンシルヴァニアに次いでオハイオ、イリノイ、インディアナと中西部諸州が続き、都市人口でも10万を超すシンシナティ、セントルイス、シカゴが西部に出現していた。西部移住者の中には農民だけでなく、土地投機業者、製造業者、聖職者、政治家、弁護士、新聞発行者、職人・労働者、女教師等、ありとあらゆる職業の人々がいた。「都市のフロンティア」という言葉もあり、実際にはこれらの人々がまず前進基地として町や都市を建設し、多くの農民はそこを経由して入植地へ向かった。したがって入植初期の段階では企業家、弁護士などの田舎町や小都市のエリートが大きな指導力を発揮したのである。







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