2・合衆国独立 連合政府の危機 |
危機の時代 |
1781年ヨークタウンの戦い直前に連合規約が成立して、連合政府は法的な基礎を持った。しかし独立戦争が終わるといわゆる「危機の時代」を迎えた。独立した13共和国の多くは自らの利害に関心を集中させ、連合会議に代表を送らないこともあった。共和国同士で境界争いを始めたり、個別にイギリスやスペインとの条約締結をはかったり、独自の海軍創設をはかったりする例もあった。各共和国の内では、多数派の横暴が顕著となった。多数を制した集団が狭い自己利害を追求し、紙幣の乱発など一方的な政策を実施して、経済を混乱に陥れていた。マサチューセッツの場合、デフレによる紙幣償却、重税賦課を推進した東部多数派に反発して、1786年西部農民2000人ほどが裁判を実力で阻止したジェイズの反乱が起こった。反乱はすぐ鎮圧されたものの、人民の共和国に人民が暴力で挑戦した事実は、重い衝撃と教訓とを連合会議の指導者たちに与えた。 西方領土の管理も重大な問題を引き起こしていた。ヴァジニア、ニューヨーク、ペンシルベニアなどは国王特許状が認めていた太平洋岸までの領域に対する権利主張を譲らず、メリーランドなどが反発して連合規約成立にも障害となっていた。結局、いずれも西方領土の請求権を放棄して連合政府は発足した。しかしヴァジニア西部で現ケンタッキーの地域や、ノースカロライナの西部、ペンシルベニアの西部、あるいは北方のヴァ―モンドなどが分離、連合内の独立共和国形成を要求していた。これらの辺境地方は政府中央へのアクセスに困難があって分離、独立を要求する一方で、イギリス領やスペイン領隣接勢力から有利な条件で編入しようとの働きかけを受けるなど、不穏な形成となっていた。 |
連合政府の必要性を再認識する |
これらに対する解決策から連合政府の必要性が認識されていった。連合政府は二つの領地規約を制定した。1785年の公有地条例は政府が公有地を測量した後、6マイル四方の広大な土地を一つの単位として有償で払い下げることを定めた。この広さ価格は個人農場の規模をはるかに超え、払い下げは土地投機会社など大手の購入者を対象として入植促進をはかるものであった。87年の北西部領地条例は西方の領土を準州に組織し、準州が一定の人口水準に達したとき、13の共和国と同等の資格で連合加入を認める手続きを定めていた。またミシシッピ川支流のオハイオ川以北のこの領地では奴隷制が禁じられた。同条例によって、既存の共和国を脅かすことなく西部辺境地域の人々が独自の政府を組織できるようになった。その他に準州の自治議会では、契約関係を損なう立法や裁判を受ける権利を否定する立法が禁じられた。このような立法は各共和国レベルで目先の利害にとらわれた多数派集団がやっていたことであった。西部入植の促進というアメリカ連合全体の公共利益からみたとき、多数派の一方的政策が抑制されるべきものと理解されていたことがわかる。 |