2・合衆国独立 独立宣言 |
独立宣言発表 |
植民地人の考え方の変化を受けて、1776年大陸会議は独立と革命を体制化していった。植民地連合はイギリス以外の国と通商関係を開くことを決定し、5月には臨時の政府に過ぎなかった各植民地にそれぞれの新憲法を制定するように勧告した。この勧告に基づいて13植民地は人民の合意に正当性を置く人民主権共和国を創造してゆく。トマス・ジェファソン起草の独立宣言が決議され、7月4日公布された。これによって各共和国が本国との政治的な紐帯を断ち切り独立したのである。 独立宣言は被治者・臣民から統治者・主権者へと転換した。以前は国家公共、世のため人のために責任と関心を持ちうる者は、君主などごく一部に過ぎないとされ、一般民は自己の生活だけ心配していればよいと考えられていた。いまや「人はすべて神によって平等に創られており、生命、自由、幸福追求の権利を与えられている」のであり、独立した意思形成を保証する財産と教養を持つ者であれば、自己の利害関心を通じて社会公共への真剣な関心が生ずると考えられた。また独立宣言は、「これらの権利を確保するために政府を創る」のであって、この目的のために政府は積極的、効率的に働くべきものとされ、ただし「政府がその目的を踏みにじる時は政府を改廃して新たな政府を設立」できることを主張した。これまで地方共同体の独立的自治、自力救済的秩序を正統とする理念が、中央政府の積極的な利害調整、再配分を肯定するものとなった。このような主権的協和国家は帝国の従属的体制に納まらず、本国からの独立が必然となった。以後の革命・建国の過程は、主権共和国がいかにすれば自民の生命、自由、幸福追求を損なうことなく、効率的に公共の福祉を達成できるか、すなわち権力を公共化してゆくかの模索の跡といえよう。 13の革命植民地会議及び憲法制定後の13共和国は、権力を公共的なものにしていった。まず第一に、会議・議会の代表をともかく人口に比例したものに近づけていった。議会が人民の似姿であればこそ、そこの決定は人民の意志となり、人民の意志を執行する権力なら公共に反することはないであろう。政府の目的は最大多数の最大幸福の実現と観念されるようになり、決定の方法も多数決が正当なものとなった。しかし第二に、人民主権のもとでも被治者は人民なのであり、効率的な権力に被治者人民の権利が侵害されない保障として憲法典が制定された。憲法は専制に陥らないよう権力の枠組みを構成し、公権力も及ばない基本的人権を保障した。特に1780年マサチューセッツ憲法制定のときに、統治者を代表する立法議会と別個に憲法制定会議が開催された。統治者には財産資格が必要としても、憲法制定会議代表の選出及び人民投票には、白人成年男子一般が許されたのである。憲法制定会議は以後の合衆国憲法、州憲法制定に引き継がれてった。 |
戦争と生活 |
独立戦争はアメリカ社会に大きな犠牲を強いながら進行していった。戦費で見ると、イギリス側は1億ポンドを超え、帝国制覇の決戦、7年戦争の8600万ポンドを上回った。アメリカ側は1億ドルをはるかに超える額に達し、これは連邦政府設立時の年間予算の数十倍に相当している。アメリカでの税金は以前の数倍に跳ね上がり、他にも食料、馬匹、車両を政府・軍隊に差し出した。特に大陸軍が付近に駐屯すれば、将兵を宿営さえたり、物資を強制挑発されたりもした。大人数での人の出入りが激しい軍隊は疫病をもたらし、天然痘流行で一般の村人まで当時まだ危険な種痘を強制されることもあった。利敵行為、英軍との密かな取引でも受ける者もいれば、その摘発処刑も戦時下生活の一コマであった。戦場ともなればイギリス軍による破壊、略奪、殺傷の被害もあった。 兵員の補充も志願制からすぐ、金で集める徴募制、そして徴兵制に移行した。民兵隊参加も含めて兵役適齢の男子は大体一度、あるいはそれ以上に軍隊に参加した。身代わりによる免除も可能だったので、金を出して貧民に代わってもらったり、黒人奴隷を持つ者は開放を約して黒人を身代わりにしたりすることもあった。農作業の主力である若い男子が兵役に取られ、農耕開拓に必要な日雇い労働力、家畜、荷馬車などの不足で農事に支障をきたし沿岸部の農村経済は衰えた。商業の場合も相次ぐボイコットと戦争で貿易が打撃を受け、内地の取引も商業中心地ニューヨークなどの英軍占領で影響を受けた。 アメリカ人の日常生活を大きく揺さぶる激しいインフレもあった。大陸会議も各共和国政府も戦時の必要を賄う財産を持たず、公債の発行と紙幣の印刷に頼ったからである。加えて軍需物資の補給不足に悩まされた大陸軍が軍票を挑発し、またイギリスの謀略による贋札まで出回ってインフレを悪化させた。戦時の物資不足も重なり物価は高騰し、紙幣価値は下落して、特に大陸会議紙幣は数十分の一の価格ででしか流通しなかった。そこで紙幣の受け取り拒否、紙幣による借金返済の押し付けなどが横行し、取引、生活は混乱した。これら経済基盤の混乱に対処する責任を負ったのが共和国の公権力であった。 具体的な政策は各共和国での利害対立を反映して多様で、人民の生活を直接左右する政策を遂行していった。当座の必要をはるかに超えて、新しい社会の変化に対応して体系的な変革の構想を実行する共和国もあった。ヴァニジアでは、126に上る法典の整備が検討され、116が審議され、70余りが成立した。商業、交通、衛生、財産、相続、刑罰、教育、救貧、官吏規定など、広範囲にわたって新時代の人民の生活枠組みを支えるものであった。 |
講和と独立承認 |
戦争はイギリス軍優位に推移した。イギリス軍は愛国派の強いボストンを引き上げ親英派勢力の強いニューヨークに本拠を構えて、ロングアイランドを制圧しワシントン麾下のアメリカ軍をニューヨーク郊外で敗退させた。しかしカナダの英軍を南下させて合流し、大陸軍を一気に粉砕しようとする英側の企図は、1778年サラトガの戦いの敗北で失敗に帰した。ワシントンは奇襲攻撃でいくつか勝利を得た後、ペンシルヴァニアのフォージ渓谷に後退して冬営に入り、あとはゲリラ戦による抵抗をつづけた。 サラトガの勝利は外交的にも大きな影響を引き起こし、独立戦争の局面を転換させた。イギリス側も衝撃を受けて和平使節を送り、帝国内でのかつての関係回復による講和を提示した。アメリカ側は独立承認を譲らず結局物別れに終わった。一方、フランス宮廷で人気のあった公司フランクリンは、この機にフランスとの同盟に成功した。 フランスは陸海軍を送り、特に艦隊勢力を得たことでアメリカは戦争を勝利に導くことができた。1781年ヴァジニアのヨークタウンでの戦いで、米仏連合軍がコーンウォリス将軍の英軍部隊を包囲し、海上をド・グラス提督のフランス艦隊が封鎖してついに降伏させた。イギリスは1783年のパリ条約でアメリカに独立を承認し、ミシシッピ川以東の領地を割譲した。 |